ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

 昨年、マイケル・ジャクソンの突然の死は、世界中の人々に衝撃を与えた。僕もその中の一人であったことは間違いない。スリラーを発表した頃のマイケルの全盛期に、僕も青春時代を過ごし,アメリカの音楽シーン(特にブラックやダンス・ミュージック)に憧れた。また,アフリカの飢餓を救うためのUSA for AFRICAも印象的で,その中の中心メンバーとして、マイケルは世界中に感動と希望をくれた。キング・オブ・ポップの名にふさわしい世界的なアーティストだった。

 だが、僕の中ではマイケル以上に存在の大きかったアーティストがいた。マイケルほどには名を知られていないが、ソウル・R&Bファンならば、誰もが知っているルーサー・ヴァンドロスである。2005年のルーサーの死には多くのファンがショックを受け,僕も彼の訃報を聞いたときには呆然と立ちすくんだ。僕がルーサーの訃報を聞いたのは、忘れもしない,東京のFMラジオ局インターFMの「クラブ・ハーレム」という番組のエンディングだった。MCのアイアが速報として伝えてくれた。

 2年間くらい脳卒中で入院していて、一時は昏睡状態に陥ったと聞いたが、徐々に回復しつつあるとの情報も聞いていただけにショックであった。グラミーの受賞式には、車椅子姿ではあったが、ビデオで元気なところを見せてくれてもいて,いずれまたその歌声を聴くことができるだろうと期待していた,その矢先であった。当時の僕は,「ガンバレ!ルーサー」というキャッチ・フレーズでラジオ番組にルーサーの曲をリクエストし,病からの回復を願い,彼を応援していたが,その願いは叶わなかった。来日公演で彼の歌声を聴きたいという僕のささやかな夢も,実現することはなくなった・・・。

 アフリカ系アメリカ人独特の野太い声に,スウィートなテイストが加わり,しかもグルービーなダンス・サウンドを歌いこなすところが,シンガー・ルーサーの真骨頂だ。デビュー曲のNever Too Muchは言わずもがなだが、それ以外に僕がインパクトを受けた楽曲は,マイケルの妹ジャネット・ジャクソンとのデュエット(The Best Things In Life Are Free)だった。その後マライヤ・キャリーとのデュエット(Endless Love)も,ダイアナ・ロス&ライオネル・リッチーに負けず劣らず,印象に残るナンバーだった。大物女性シンガーとのデュエットが得意分野の一つでもあったように思う。最後のアルバム(Dance With My Father )でもビヨンセとのデュエット(The Closer I Get To You)があり、2人とも味を出していて最高のバラードに仕上がっている。

 最後のアルバムでは,アルバム・タイトルにもなっているDance With My Fatherがやはり秀逸である。この曲が出来たときに,ルーサーは彼の母親に「これまで書いた中で最高の曲が出来た」と語ったという。歌詞は家族への想いを綴った極めてパーソナルな内容で,またサウンドは派手なアレンジもなくシンプルそのものだが,聴き込むほどに味わいが深く,じっくりと気持ちを込めてリリックを歌い込むルーサーの姿が目に浮かぶ名曲である。しかし,この最高傑作が最後の名曲になってしまった。・・・Rest In Peace


Dance With My Father
えせブログ~自由への散策~-Dance With My Father

Dance With My Father

Never Too Much



■『えせブログ』今後の掲載予定(あくまで予定です)

・我が心のアーティスト~メアリー・J・ブライジ~

・'90年代の光と影~ローリン・ヒル~

・R&B入門

・1日0食の現実と苦悩~3mの人生~

・日本の科学思想と宮沢賢治
・ゼミナールって?

・IT革命とは何だったのか?

・真のバリアフリーに向けて