『故郷』と自由への道 | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

 人にとって故郷とは何だろうか。離れて久しい故郷は,その人にとってどういう意味を持っているだろうか。

 「うさぎ追いし かの山」の歌詞で有名な唱歌「ふるさと」や,「ふるさとは遠きにありて思うもの」という室生犀星の詩に象徴されるように,生まれ育った故郷を懐かしく回想する文学的作品は,日本ではあまた書かれてきた。すなわち,ふるさとの山や川などの自然,または家族や旧友などの人間関係を描くことによって,多くの共感を持って読まれてきた。日本で「故郷」というと,どうしてもそうした懐旧的な内容を思い浮かべてしまう。だが,最初に断っておくが,今日のエッセイは,そのような,ある意味情緒的な日本文学を語るものではないし,また自分の故郷を懐かしんで,想い出に浸る感傷的なものでもない。


 離れておよそ20年にもなる故郷に,今年の春に引っ越し,母親と一緒に住むことにした。一昨年,父親の葬儀で帰郷したとき,その故郷はもはや僕の少年時代のものではなかった。家の周りの風景は見覚えのないものばかりとなり,近所の人々はもはや誰も分からなかった。この故郷の現実を目の当たりにして思わず「寂寥の感」が胸にこみ上げたが,やがて自分にこう言い聞かせた。「そう感じるのは,自分の心境が変わっただけだ。なぜなら,今度の帰郷は決して楽しいものではないのだから。」


 このような故郷についての感想は,実際に自分が帰郷したときに感じたものであって,魯迅の有名な小説『故郷』の冒頭部分の紹介ではない。今回『故郷』を読み直してみて,主人公「わたし」(=魯迅)が置かれている境遇と,現在の僕の境遇とが,ほんのわずかだが重なり合うところがあるように感じたため,『故郷』から言葉を引用しながら,自分の感想を少し述べさせてもらった。自分の故郷についての感想はここまでにしよう。


 さて今日は,小説『故郷』に込められた作者の思いや願いを探りながら,それを手がかりにして現在の世の中や社会のことを少々考えてみたい。簡単に言うと,《小説『故郷』が,現代に生きるわれわれに語りかけるもの》といったことが,今日の話のテーマとなる。

 今,「現在の世の中や社会のこと」とさり気なく述べたが,この『故郷』という小説のすばらしいところは,単に昔を懐かしむといった懐古的な想いを作品にしたのではなく,故郷を通して社会や国家のあり方を問題にしている点である。こういった視野の広い,思想性に富んだ文学作品は,日本文学にはあまり見当たらない。

 『故郷』が発表されたのは1921年のことであるが,その頃の中国は,古い封建的な社会から,近代的な社会に変わろうとする,まさに激動の時代にあった。すなわち,1911年の辛亥革命,1912年の中華民国成立によって,約300年続いた清朝の専制君主制が消滅し,中国はアジア初の民主共和制の国家となる。しかし,その後,列強の支援をうけた軍閥が各地に分立し,共和制は完全に形骸化し,不安定な政治社会が十数年続くことになる。また,国際的にも,1904年からの日露戦争,1914年からの第一次世界大戦,1915年には日本からの21ヶ条の要求,1917年のロシア革命,といった著しく不安定な情勢が続いていた。

 『故郷』で描かれている社会は,そのような困難や矛盾や動揺が満ちた社会である。その現実社会を卑屈に,しかもずる賢く生きる人々,と言うより,そのようにしか生きられない人々の姿を描くことを通して,それを否定し,社会を変革し,自由を求め,「新しい生活」を築かねばならないとする,作者の願いがこの作品には込められている。

 辛亥革命によって,曲がりなりにも共和制の国家が生まれた。二千年以上にわたる中国の君主制が終わりを告げ,新しい千年の幕開けに,希望を見出したとしてもおかしくはない。魯迅は「人が人を食う」清朝の偽善を暴き,革命軍(中国紅軍)の活躍の中に新しい自由への夜明けを見出して、それを歓迎したのだ。

 作者からすると,希望は次の世代に託される。なぜなら新しい世代には,「わたし」とルントウの間にあったような「悲しむべき厚い壁」(当時の社会体制下で生まれた身分や境遇の違いのこと,あるにはそうした意識)が薄く,「心が通い合っている」から。

 そのような壁を取っ払い,人々が対等の立場で自由な人間同士として結びつき合うような生活あるいは社会―――そうした世の中を作者は望んでいたにちがいない。そこには社会変革への強い意志が読み取れる。そうした意志や希望が,この作品には色濃く映し出されている。

 では,その希望はどのようにして実現されるのか。その点は,この作品の締めくくりの文章によく表れているので,引用しておきたい。なお,(  )内は竹内好訳である。


 我想、希望是本無所謂有、無所謂無的。道正如地上的路、其實地上本没有路、走的人多了、也便成了路。

 (思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。)


 希望とは,あらかじめ絶対的なものとして出来上がっているものではない。つまり何か決まった完成形があるわけではない。それは,人々一人一人が作り上げていくものであり,一人一人の意志や主体性がそこには含まれるから,あらかじめどのようなものになるかははっきりとは分からない。いわゆる民主主義とはそういうものなのだろう。かつて,著名な政治学者の丸山真男が「民主主義とは永続的な革命だ」と語った。つまり,自由や民主主義とは永久に続くプロセスであって,そこにゴールはないということである。重要なのは,一人一人が意志を持って「道」作りに主体的に参画する,その過程である。

 そこで,主体的に参画する人が多くなれば,すなわち―――歩く人が多くなれば,それが地上の道になり,また,そこを歩く人がますます多くなれば,明確で強固な大道になるのだ。

 このように,自由な人間たちの主体的な連帯に,未来の希望を見出した魯迅の作品は,今でもその希望の光を失っていないし,今なお,新しい千年の「道」作りのプロセスに立つわれわれを勇気づけてくれる作品である。


(付記)

 今回のエッセイは,できる限りわかりやすく書こうと思ったが,結果的にやや難しい表現や私の強引な個人的解釈が入って,読みづらいものになってしまった。民主主義の本質といったものを伝えたかったがため,どうしても上記のようにならざるをえなかった。ご容赦いただきたい。