西本幸雄と江夏の21球 ~悲運の名将を偲んで~ | 現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。

現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。

個人投資家向け収益不動産検索サイト e-不動産販売公式アカウントです。
マンション経営、アパート経営でお困りの大家さん、収益不動産購入に伴う銀行融資などの不動産投資相談をお受けします。最新の賃貸経営は日々進化しています。一緒に勉強しましょう。

「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-笑顔 西本幸雄

Numbaer http://number.bunshun.jp/articles/-/178111

1979年11月4日の日本シリーズ第7戦、広島vs.近鉄。今もなお語り継がれる伝説の名勝負の最中、闘将と呼ばれた男の脳裏には、20年近くも前のある出来事の記憶が蘇っていた。弱小チームを類まれな指導力で鍛え上げ、8度のリーグ優勝を果たしながら、ついに頂点へ到達できなかった指揮官の知られざる実像に迫る。

――2011年11月25日、“悲運の名将”と言われたひとりの野球人が不帰の客となった。西本幸雄、享年91歳。その通夜は、山田久志、福本豊、梨田昌孝ら教え子で、名選手や名指導者となった数多くの野球人たちが見送る盛大なものとなった。


「あの時、スクイズのサインを出したことに後悔はないよ」

近鉄バファローズの監督だった西本幸雄は、85歳となった今、そう考えている。


2001年の日本シリーズ。ヤクルトスワローズvs.近鉄バファローズの試合で始球式にのぞんだ81歳の西本氏 もちろん、後悔しても、過去の歴史を取り戻すことはできない。野球は、グラウンドで行われたプレーだけが、歴史的事実として記録されるスポーツである。むしろ、四半世紀の歳月を経て、すでにユニフォームを脱いでしまった現在、どんな過去も穏やかに振り返ることができるということかもしれない。

「ただ、スクイズという戦法が、ウチの打ちまくる野球と違っていたのは確かやな」

西本は、そうも言った。

「パ・リーグのお荷物」とバカにされ続けた弱小チームを、6年かけてリーグ一の打撃のチームに育てあげたという自負が、西本にはあった。頭の中では「ストライクは、三つともバットを振れ」と思っている。「外野フライで同点や」。そうも思っている。

しかし、次の瞬間、西本の左手が動く。当時、サインはベンチから三塁コーチャーを経て選手に伝えられた。西本の利き手である左手が、右肩に触る。それが、1979年の日本シリーズの命運を決するスクイズのサインであった。


「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-指揮 西本幸雄

1979年、広島vs.近鉄の日本シリーズ最終戦。『江夏の21球』の舞台。
1979年の広島―近鉄の日本シリーズは、3勝3敗で最終戦までもつれこんでいた。第7戦の舞台は、大阪球場である。スコアは3-4。わずか1点を追って近鉄の最後の攻撃が始まっている。

時折、冷たい雨が落ちてくる。試合開始から、すでに3時間半近くが経過していた。11月4日の午後4時半ともなれば、雨が濡らす黒土のグラウンドは冷え込んだ。西本は背番号「68」のユニフォームの下にウインドブレーカーを着込んで、一塁側のベンチ中央に座っていた。当時59歳である。

1967年に阪急ブレーブスを率いてチーム初のリーグ優勝を果たす(当時47歳)。その後、7年間で5度のリーグ優勝を記録した 右のバッターボックスに、石渡茂が入った。

ワンアウトながら、ベースは全て埋まっている。三塁ランナーの藤瀬史朗がホームへ帰ってくれば同点。二塁にいる吹石徳一まで生還すれば、「サヨナラ日本一」という劇的な幕切れになる。石渡の一振りで、西本を日本一の監督にすることもできた。

「バッターボックスに入る前、監督に『サインをよう見とけ』と言われたんです。だから、スクイズのサインが出るかもしれないと思いました。でも、僕は打ってやろうと思っていたんです。スクイズのサインが出るまではストレート狙いで、『初球から行くぜ』と思っていました」

石渡は、そう振り返った。

マウンド上には、広島のリリーフエース江夏豊がいた。

「南海時代の江夏さんとは、何度も対戦していました。当時は変化球が多くて、ストレートは速くないという印象だったんです。ところが、この日本シリーズでは、球が速くなってストレートが増えていた。そのストレートを狙ってやろうと思ったんです」

江夏のセットポジションは、突き出たお腹の上にボールがセットされる。そのお腹をどっこらしょと持ち上げて投げ込んだのは、インコース高めのカーブだった。石渡は、わずかにしゃがむようにしながら見送った。

「僕は、ストレートにヤマを張って、そこへ変化球が来ると対応できるタイプじゃなかった。カーブだか、フォークだかが来たので、見送るしかなかったんです」

アンパイアの右手が、さっと上がった。全国でスコアを記入しながら観戦している野球ファンが、ストライクを示す「○」を一つ記入する。誰もがフッと息をつくような場面だが、その「○」が記されるわずかな間にピッチャーと監督の胸の内は急展開を見せていた。


江夏はスクイズを予感し、西本はスクイズしかないと確信した
マウンド上の江夏は、石渡が打ち気なく見送ったことで、初球はウェイティングのサインが出ていたに違いないと誤解した。そして、2球目に仕掛けてくるはず、それはスクイズしかありえないと考えた。

さらに、石渡の打ち気のない見送り方は、西本の思いも急変させる。西本は、とっさに「石渡では、江夏を打てないのではないか」と思った。これも、西本の誤解だったかもしれない。しかし、ストライクをあっさりと見送った石渡を見て、西本はスクイズしかないと思う。

「石渡の前に、ノーアウト満塁で佐々木(恭介)を代打に送ったけど三振やった。それも大きかったよ。江夏と石渡。この二人を考えたら、ピッチャーの方が上かもしれん。それなら、バットを振るより、待って当てる方がバットに当たる確率が高いと考えたわけや」


「打ち勝つ野球」より「確率の野球」にかけた西本
大詰めの段階で「打ち勝つ野球」より「確率の野球」を選択する。

そして、西本は、三塁コーチャーの仰木彬へスクイズのサインを送った。当時、二人の間のサインは、1、4、7回は右手が左腕に触った時、2、5、8回は左手で顔や胸やお腹を触った時、そして、3、6、9回は左手が右腕に触った時が本当のサインと決められていた。さらに、両脚が閉じているか、開いているかでもサインは変わったし、「取り消し」のサインなども加えて相手から盗まれないよう巧妙にカムフラージュしてあった。

この場面では、西本の左手が右肩に触れた。「9回」なので左の手で右腕に触る。その右腕の中でも右肩に触れたことが「スクイズ」を示していた。スクイズのサインは、三塁コーチャーを経由して選手に伝えられる。

石渡は、三塁コーチャーズボックスの仰木を見た。

「『出たな』と思いました。意外に冷静でしたよ。相手に悟られないように、そんなに早くバットを出さないで確実に当てる。三塁ランナーは足の速い藤瀬だから、しっかり転がせば同点になると、段取りを頭の中でイメージしていました」

江夏は、スクイズがあるかもしれないと思いながら第2球のモーションを起こす。三塁ランナーがスタートを切り、バッターがスクイズの構えに入った。


「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-スクイズ失敗 西本幸雄

ランナーの藤瀬が挟殺プレーでアウトになり近鉄の敗戦が濃厚に
勝ったのは、江夏だった。

三塁ランナーのスタートが、わずかに早かった。キャッチャーの水沼四郎が立ち上がる。江夏は、とっさの判断でアウトコース高めに外した。握りはカーブだった。ボールは微妙に変化し、突き出した石渡のバットはむなしく空を切った。

「あのボールは、江夏さんが本当に外したんですか? 外そうと思ったらカーブなんて投げます? 僕は、今でも単なるカーブのスッポ抜けと思ってます。そして、決してバットの届かないボールじゃなかった。それなのに伸び上がるようにしてバットを出してしまった。いわゆる迎えに行っちゃった。その辺は、僕の方が冷静でなかったんです」

石渡が「シマッタ」と思った時、三塁ランナーの藤瀬はホームベースの手前まで走り込んでいる。挟殺プレーでタッチアウト、ツーアウトとなった。この瞬間に、近鉄の敗戦が決まったようなものだった。

「もう頭が真っ白でしたよ。気持ちをとり直そうと思っても、なかなか……。まだ試合は終わってないので『打ってやろう』とは思うんですけど、ツーストライクと追い込まれたから、どんなボールでも打たなきゃいけないじゃないですか。その時点で負けですよ」

グラウンドでは、とりあえず野球のルールに則って、ツーアウトでランナー二、三塁、石渡のボールカウント、ツーナッシングからプレーが再開される。

近鉄ベンチの西本の顔は、青ざめている。しかし、江夏の顔つきには、何の変化もなかった。セットポジションから江夏が投げた3球目は、インサイド低めのストレートだった。石渡が、辛うじてバットに当ててファウル。早いテンポで、江夏が4球目を投げる。インサイド低め、打者のヒザ元に沈むカーブだった。石渡のバットが空を切り、鋭く曲がり落ちたボールがキャッチャーミットに吸い込まれた。

西本が、ベンチに座ったままうなだれている。マウンド上では天に向かって、江夏が両腕を突き上げていた。


「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-古葉と握手 西本幸雄

西本の脳裏によぎったのは、1960年の日本シリーズの出来事だった
このシーンは、今でも語り継がれる日本シリーズの名場面である。また、山際淳司さんが、「ナンバー」の創刊号を飾った名作『江夏の21球』で、選手たちの心理状態を生々しく描いたことでも広く知られている。その息詰まる攻防の中、近鉄ベンチの西本の脳裏には、かつての苦い体験が鮮明によみがえっていた。

「石渡にスクイズさせようかと思った時や。1秒もない、わずかな間のことやった」

西本は、そう言った。

鮮明によみがえったのは、そこから時をさかのぼること19年、'60年の日本シリーズでの出来事だった。当時、40歳の1年生監督だった西本は、やはり、ワンアウト満塁でスクイズという作戦を失敗していた。20年近い歳月を経て、石渡にスクイズのサインを出す直前にそのシーンがフラッシュバックしたというのだ。


スクイズが失敗し、大毎オリオンズの監督は解任された
1960年の日本シリーズは、西本が率いる大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)と大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)との間で争われた。川崎球場での第2戦、スコアは2-3だった。1点を追う大毎は、8回表、ワンアウト満塁と一打逆転のチャンスをつかむ。そこで右バッターボックスに入ったのが、5番に起用されていた谷本稔である。マウンドにいたのは、2戦連続の登板となる大洋のエース秋山登だった。

第1球は、一塁寄りネット裏へのファウルボールになった。ヒッティングである。しかし、次の2球目、西本は作戦を急きょスクイズへと変更する。

「僕は、バットには確実に当てたんよ」とバッターの谷本は振り返る。

「『上手くいった』と思ったよ。ところが、ピッチャーの秋山がサイドスローで、ボールが浮き上がってきたからなのか、バントしたボールにバックスピンがかかっていた。それで地面に落ちた後、ボールが戻ってきたんよ。一塁へ走り出して、もう1歩目か2歩目にはホームの方へ戻ってくるのが見えたから」

そのボールをキャッチャーの土井淳がつかんでホームを踏み、一塁へ転送。ワンアウト満塁という絶好のチャンスは、一瞬にしてついえてしまった。試合は、そのまま大きな動きもなく終わり、初戦に続いて大毎は連敗する。

「この谷本のスクイズ失敗っちゅうのは、どこの監督しとっても、オレの頭の芯にこびりついとるね」

西本の告白である。

「だって、スクイズ失敗して、それからオーナーと喧嘩やもん。で、監督をクビやろ。オレの野球人生の中でも大事件やぞ」

「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-指導 西本幸雄

田宮、榎本、山内、谷本、葛城の「ミサイル打線」が火を吹いた年
この年、西本の率いる大毎は、破竹の勢いでペナントレースを駆け抜けた。「監督が何もしなくても、勝手に打ちまくってくれた」と西本自身が振り返るように、2番田宮謙次郎から榎本喜八、山内一弘、谷本稔、葛城隆雄と続く「ミサイル打線」が、西鉄や南海の主力投手をことごとく粉砕。打棒の大爆発で、パ・リーグ優勝をものにする。

セ・リーグを制した大洋との日本シリーズは、下馬評では、大毎が圧倒的に有利とされていた。しかし、結果は、意外にも大洋の4連勝。勝負を分けたのは監督の采配の差だと、西本への批判が集中した。

大洋の指揮をとっていたのは、三原脩監督だった。西鉄ライオンズの黄金時代を築いた大監督である。この年、大洋の監督に就任してからも、前年のセ・リーグ最下位チームをわずか1年でリーグ優勝へと導き、「三原魔術」と呼ばれた。新米監督の西本には比較されること自体が酷な話だったが、特にシリーズの流れを決めてしまったのが、満塁でのスクイズ失敗だったと叩かれた。

しかも、その采配が、西本の監督解任へと発展してしまう。西本は、解任のきっかけとなった電話でのやりとりを、半世紀近い歳月が経過した今でもはっきりと覚えている。

「第2戦でスクイズを失敗して負けた夜、永田オーナーが電話をかけてきて、『ミサイル打線』というニックネームまで持っているチームが、なぜスクイズをしたのかと言うんだな」

永田雅一というオーナーは、「永田ラッパ」と呼ばれたように、金も出すが口も出すオーナーとして有名だった。永田は、その試合を評論家たちと一緒に観戦していた。彼らが西本の採ったスクイズという作戦を非難していると、電話口で声を荒らげた。

「そやから、オレはやね、『今のチーム状況は、評論家より監督の私の方がよく知っています』と答えた。そしたら『バカヤロー』と言うてきた。こっちもカッとなってやねぇ、『バカヤローはないやろ、今のは取り消してくれ』と言い返したら、相手はワンマンオーナーやから怒りまくったというわけや」


「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-阪急時代 西本幸雄

「オレは、誰にもコビを売っては生きてないよ」
西本には、スクイズを選んだ理由があった。

「ミサイル打線は確かによく打ったけれど、『優勝』が見えてきた8月下旬あたりから調子を落としとった。前日の第1戦でも、ヒットは5本だけで、1点も取れなかった。しかも、第1戦でも投げた秋山の球はシンカーばかりで、打っても打っても内野ゴロなんだよな。そして、あの場面でも、その秋山がリリーフに出てきた。一方、谷本はいいバッターだったけど、足が遅かった。内野ゴロではダブルプレーなんや。もともと打線のいいチームだからこそ、3対3の同点になればノビノビと打てるようになると思った。それを『バカヤロー』とは何事か、と。こっちは1年生監督で、神経性胃炎にかかって1年間ずっと下痢してやねぇ。それほど神経をすり減らしてペナントレースを制したのに、日本シリーズで2連敗しただけで『バカヤロー』ときやがったからね。許せなかったよ」

日本シリーズ終了後、西本が黙って頭を下げていれば、何のしこりも残さず、一件落着しただろう。口うるさいオーナーだったが、情に厚い永田のことだから、笑って許したに違いない。実際に、西本は球団幹部から、そうアドバイスもされた。

「だけど、そんなもんクソくらえや。オレはクビならクビでいいやないかと思った。オレは、誰にもコビを売っては生きてないよ」

西本はリーグ優勝を果たしながら、わずか1年で監督を解任された。この「大事件」が、いつまでも西本の心に大きな傷として残っていく。


大型補強もせず、生え抜きの選手を育てて優勝する手腕
1980年にリーグ優勝を決め、胴上げされる近鉄バファローズの西本監督 大毎監督を解任された西本は、いったん評論家になる。1年後の'62年、阪急ブレーブスのコーチとして招かれ、翌'63年から19年間、阪急と近鉄の監督を務める。いずれもリーグのお荷物球団と呼ばれていたチームだったが、阪急で5度、近鉄で2度のリーグ優勝を果たした。特筆すべきは、生え抜きの選手をじっくり育てることでペナントを制したことである。豊富な資金力を背景に、大物選手を補強して戦力を整えたのではない。ドラフトで指名した金の卵たちを手塩にかけて、リーグを代表するバッターやピッチャーに育てあげた。彼らの成長ぶりは、数字にもはっきり表れている。

たとえば、阪急の監督に就任した'63年は、チーム打率2割2分8厘、86本塁打の超貧打線だった。それを、8年後の'71年には打率2割7分3厘、166本塁打の打撃型チームへと変身させている。この間に育てたバッターには加藤秀司、福本豊、長池徳二、大熊忠義、森本潔らがいた。また、近鉄の監督に就任した'74年にも、チーム打率は2割3分、131本塁打とさっぱり打てなかった。それを、5年後の'79年には打率2割8分5厘の猛牛打線へと変身させた。さらに翌'80年には、実に打率2割9分、本塁打239本というとてつもない数字を記録する。この間には佐々木恭介、羽田耕一、石渡茂、平野光泰、栗橋茂、梨田昌崇、小川亨、有田修三らを育てている。


「人間は本来の姿を忘れて余計なところに無駄な力が入る」
70年に及ぶプロ野球の歴史を振り返っても、1チームの打撃力をこれほどアップさせた指揮官というのは珍しいだろう。その秘密はどこにあったのかと尋ねると、西本はこう言った。

「人間本来のね、自然体というか、その人の最高の力の出せる姿勢だね。バットのような重いものを振ろうとすると、人間は本来の姿を忘れて余計なところに無駄な力が入る。それをいかに抜くかやね」

少し解説が必要かもしれない。

プロ野球の世界で活躍しようと思えば、しっかり見極めたボールに対して、思い通りに、しかも、できるだけ速くバットを振ることが必須条件である。そのために大切なことを、西本は「無駄な力をいかに抜くか」だと言った。ひと言で言えば、「脱力」である。

このあたりの理屈はプロ、アマにかかわらず、野球関係者には常識だろう。だが、一歩進んで「脱力するにはどうするか」と問われれば、そのノウハウを持ち合わせている指導者は少ない。西本は、それを持っていた。

「『軸』という言葉は、毎日聞いたね」

そう振り返るのは、元近鉄、のちに監督も務めた佐々木恭介である。もちろん野球界では、「軸」という言葉もよく聞く。しかし、西本の指導は、さらに具体的だった。

「西本さんがよく言ってたのは『頭のてっぺんからお尻の穴まで串を刺したような状態をイメージしろ』ということだった。だから、常に体の真ん中に串を刺したイメージを持っとったね」

やがて、佐々木の体に変化が生じる。そして、佐々木は、それを敏感に感じ取っている。

「そうすると、まず、自然に背筋が伸びてくるよね」

野球の指導者と選手の間でこんな会話が交わされるのは、極めて珍しいことではないだろうか。「頭のてっぺんからお尻の穴まで串を刺したような状態をイメージしろ」と指導者が言う。そして、選手が、「自然に背筋が伸びてきた」と答える。しかも、佐々木は、「背筋を伸ばす」のではなくて、「自然に背筋が伸びてくる」と感じた。実は、この感覚がつかめれば、背中やお尻、太ももの裏側といった、体の裏側や体の中心に近いインナーマッスルがよく使えるようになる。その結果、体表面の筋肉から無駄な力が抜け、全身がリラックスできるというわけである。

「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-指導 若い 西本幸雄

全身から無駄な力を抜くトレーニングを重ねて打棒開眼した佐々木
「軸のイメージができるようになると、頭が動かなくなる。それによって、上体が突っ込む癖が直ったよね。あと、関節から無駄な力が抜けて、クッとコマのように回れるようになっていった。すると、バットのヘッドがスッと走りだすし、フォローも勝手にとれるようになった。手首も返さなくても、勝手に返るようになったよ」

また、佐々木はこんな指導も受けている。

「グリップは、指の力を抜いて柔らかく握りなさいと言われたね。指に力が入ると、手首に力が入る。手首に力が入ると、ヒジに力が入る。ヒジに力が入ると、肩に力が入る。逆に、体の末端から力を抜くと、それが全身のリラックスにつながる、と」

西本は、指の力を抜いた握りで、かつ、ボールを遠くまで飛ばせと言った。

「でも、指の力を抜くって、最初は頼りない感じがしてね。こんなフニャフニャな握り方で、ホンマに打てるんかと思うわけ。だけど、練習を続けるうちに、インパクトの瞬間だけクッと力を入れるといいのがわかってくる。そうするとバットのヘッドが走るようになって、スイングが速くなったよね」

こうして全身から無駄な力を抜くトレーニングをしながら、佐々木はマウンドの4m手前から速いボールを投げてもらい、それを正確に打ち返す練習を繰り返した。打ち損じをすると、西本が「しっかり打たんか」と手にしたノックバットでバッティングケージをガツンと叩く。その緊張感の中で体軸をイメージしながら雨の日も雪の日もバットを振り続け、佐々木は3割バッターに成長、'78年には首位打者にも輝く。


西本に見守られ、猛練習して成長していった選手たち
「フォームをどうこういうのは、体の軸のイメージがしっかり作れたバッターに対してすることであって、最初は、自然体で最高の力を出すためにいい姿勢をつくることが大事なんだよ」

西本の言葉である。とはいっても、体軸をイメージしたり、末端の力を抜くことで、全身のリラックスができる選手というのは、近鉄でいえば佐々木や栗橋などひと握り。たいていの選手は、いろんなところに無駄な力が入る癖があって、なかなかうまくいかない。


写真は阪急ブレーブス時代、選手に指導する西本監督「だから、指導者というのは、姿形を見ていてどこに無駄な力が入っているかを見抜かなきゃいけない。そして、その改善策を指導しなきゃいけないよ」

石渡茂に対しては、こんな指導を行った。現在はソフトバンクの編成部長を務める石渡が証言する。

「バットを振りながら、『左右の肩を結んだ線とベルトの線を崩すな、平行に回せ』とよく言われました。下からアッパー気味にバットが出ると、肩の線が崩れますよね。西本さんに言われた通り、それを意識し続けることで、ヘッドが走るようになった。そのための指導だったことがよくわかりました」

体軸の話では、もう一つピンとこなかった石渡も、こう説明されれば、コツをつかむのは早かった。その後は、毎日、西本に見守られながら猛練習することでレギュラーポジションを獲得、2割8分を打てるバッターに成長していった。


ヒザを軟らかく使わせるために、ゲージの後ろでケン玉を練習させた
西本は、羽田耕一にはケン玉の練習を命じた。近鉄の監督に就任した直後、羽田がプロ入り3年目のことである。しかし、なぜケン玉だったのだろう。

「羽田なんて、もうどんくさいからね。外国人並みの力があるけど、無駄な力が抜けない。下半身と上半身もバラバラだし、ヒザも硬かった。これはケン玉やと」

羽田は、なんと藤井寺球場のバッティングケージの後ろでケン玉と格闘することになった。羽田(現・オリックス大阪営業部)の回想である。

「新聞記者からスタッフから、たくさんの人が見てはりますやん。恥ずかしいし、みっともないし。最初は抵抗ありましたよ。バッティングとの関係に疑問もありましたし。玉は入ったか? 入るわけないですよ」

だが、羽田はしだいにケン玉にハマッていった。自宅でも、家族が寝静まってからケン玉と戯れるようになる。

「あれ、手だけでやろうとするとダメなんですね。ひざを柔らかくつかって全身でやらないといけない。リズムをとったり、タイミングを考えたりしていくうちに、『なるほどな』と思いました。バッティングでも、だんだん下半身が柔らかくつかえるようになったですね」

どんくさかった羽田が、猛牛打線の主力バッターへと育っていった。

野球界には、打ち損じたバッターを見て「力むな」とアドバイスするコーチは多い。しかし、「力むな」と言われて、簡単に無駄な力を抜ける選手が、プロ野球史上どれぐらいいただろうか。それなのに、「いかに脱力するか」というテーマは、今でも野球界で手つかずのままとなっている。西本は、それに30年も前から独自に取組み、見事な実績を残してきた。見方を変えれば、これからの野球界が見習うべき手本を、西本が示しているということだろう。


羽田は外のストレートだと確信し、江夏は初球を見送ると予感した
あの日の9回裏、最初に流れをつかんだのは近鉄だった。ツキを呼びこんだのは、ケン玉の羽田である。

「意外に冷静でしたよ」

羽田は、そう言った。

3勝3敗で迎えた最終戦。'79年の日本シリーズは、最後の攻防を迎えている。リリーフエースの江夏で逃げ切りたい広島に対して、わずか1点を追いかける近鉄。先頭打者は、6番に起用された羽田だった。

「初球に何が来るか。消去法で考えたんです。まず、長打を警戒してインコースには来ないと。それに、江夏さんの外から曲がってくるカーブは打ちやすいと思っていた。相手バッテリーも警戒するだろうと。そうするとアウトコースのストレートしかないと思ったんですよ。もう120%、外のストレートと思ってバッターボックスに入りました」

羽田の読みは、みごとに的中する。アウトコースに、何でもないストレートが入ってきた。ケン玉で鍛えたヒザを柔らかく使って、羽田は素直にセンター前へ弾き返した。江夏は「9回裏で1点差。普通のバッターなら初球を見送るはずだ」と思っていた。羽田が捉えたのは、江夏が不用意に投げ込んだストライクだった。

西本が「代走、藤瀬」を告げる。藤瀬は、代走のスペシャリストで、接戦の終盤になると決まって起用された。藤瀬が一塁ランナーとなったことで、単独スチール、ヒット&ラン、送りバントと、西本の選べる作戦の幅が広がった。

バッターボックスに、7番のアーノルドが入った。江夏は、藤瀬の足を警戒し、アーノルドに対してボールを二つ続けた。そして、二つ、一塁へけん制球を投げる。3球目は、真ん中のストレート。ヒッティングには、絶好球だった。しかし、近鉄ベンチは、まだ動かない。ワンストライク、ツーボールとなった。西本がサインを送ったのは、この後のことである。

「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-指導2 西本幸雄

ノーアウト満塁……喜びを隠せない表情の西本
江夏が一つけん制球を投げた後の4球目、一塁ランナーの藤瀬がスタートを切る。西本の選んだ作戦は、ヒット&ランだった。

ところが、アーノルドが、アウトコースに外れたボールを見送ってしまう。ランナーの藤瀬は、わずかにスタートを遅らせていた。誰もが、貴重なランナーを殺したと思った。しかし、キャッチャー水沼の送球が、二塁の手前でワンバウンドしてセンターへ抜けていった。藤瀬は、一気に三塁へ進む。近鉄ベンチが大騒ぎをしている。思わずベンチを飛び出した西本も、苦笑いを浮かべる。ノーアウト三塁。ツキは、完全に近鉄の側にあった。江夏は、アーノルドを歩かせ、ノーアウト一、三塁となった。西本は、一塁の代走に吹石を送った。

江夏は、マウンド上で「1点はしゃあない」と思った。しかし、広島ベンチは、1点もやらないという前進守備を選択する。これで、一塁ランナーの吹石が盗塁をしやすくなった。

次のバッター平野光泰に対しての、ワンストライク、ワンボールからの3球目に、吹石は悠々と盗塁する。西本は、一塁ランナーもスコアリングポジションへ送った。広島ベンチは、即座に平野の敬遠を指示。平野が一塁へ歩いて、ノーアウトで満塁となった。ベンチから、西本が笑いださんばかりの表情で出てくる。

「勝ったと思ったよ。ノーアウトで、ランナーが三人も出とるんや」
「そりゃあ、勝ったと思ったよ。ノーアウトで、ランナーが三人も出とるんや。しかも、3割バッターの佐々木が残っとった。ええバッターが残っとったと思ったよ」

「代打、佐々木」を告げる。西本は頭の中で、「ストライクは、三つとも振れ。外野フライで同点や」と考えている。

その西本の視線の先で佐々木は、しかし、全く別のことを考えている。佐々木は、シリーズ直前の練習で右の太もも裏に肉離れを起こし、完治していなかった。

「だから、ゴロ打ったらアカンと思っとるわけ。思い切り走れないから、ゴロやったらゲッツーやん。ゲッツーだけは避けなアカン、と」

西本が、ネクストバッターズサークルの佐々木に歩み寄る。この時、西本が佐々木に「外野フライでええぞ」と声をかけていれば、佐々木は、もっと楽な気持ちでバッターボックスに入れたのかもしれない。しかし、西本のかけた言葉は、全く違っていた。

「サインをよう見とけ」

西本は、そうささやいた。

「監督が、あの場面でそれだけしか言わんかったら、普通はスクイズやん。スクイズがあんのか、そう思う。でも、すぐにノーアウト満塁ではありえないと思った」

佐々木が、右のバッターボックスに入る。

「スクイズはない。打つだけや。オレが決めたる。サヨナラヒットや」

バッターボックスに入る直前に、佐々木の気持ちが右に左に大きくブレた。


佐々木にとって「生涯で最も悔いの残る一球」
江夏が、第1球を投げ込む。内角低めのカーブ。打ち気の佐々木のバットが動いたが、辛うじて止まった。

ワンボール。

「ワンボールになって、監督の『サインよう見とけ』という声がよみがえってくんねん。『そうや、スクイズがあるかもしれん』。そう思って、『一球待ってみよう』と思ってしまった」

監督と選手の間に、気持ちのズレが生じていた。物事の破綻というものは、実は、その少し前から静かにゆっくりと始まっている。西本の采配の破綻は、この瞬間から始まったのかもしれない。

その直後、佐々木は悔やんでも悔やみきれない体験をする。江夏の投じた2球目が、ド真ん中のストレートだったのだ。

「『しまった』と思ったよね。甘い球やった。でも、『一球待ってみよう』と思とるから、手が出なかった。心の動揺は、半端じゃなかったよ」

佐々木にとって「生涯で最も悔いの残る一球」となった。ベンチでは西本が「なんで振らんのや」と天を仰ぐ。


佐々木が甘い球を見逃すきっかけとなった西本の言葉
「佐々木の技量があれば、楽々外野フライを打てた」

西本は、そうも思っている。しかし、佐々木が甘いボールを見逃すきっかけとなったのは、西本の頭の中にある言葉と、口をついた言葉が違っていたことだった。西本が思わず「サインをよう見とけ」と話した時、西本の頭の中には19年前の満塁スクイズ失敗のシーンが、すでにチラついていたのかもしれない。

バッターボックスで佐々木は、「困った表情を江夏さんに悟られてはいけない」と、必死でポーカーフェイスを装っている。

「3球目は、どんなボールでも打つという気持ちやね。速いボールのタイミングで待っといて、遅いボールにも対応しようと。そこへ遅いカーブが高めに来た。バットを振ったら、ちょっと早かった」

ワンバウンドした打球が、サードへ転がっていった。

「ああ、これはゲッツーやと思た」

しかし、次の瞬間、佐々木の目がパッと見開く。

「やったー、サヨナラや」

打球が、ジャンプするサード三村敏之のグラブをかすめてレフトへと抜けていった。

近鉄ファンから大歓声があがり、紙吹雪とテープが投げ込まれる。西本がベンチを飛び出す。しかし、三塁塁審の判定はファウル。西本の足が止まり、顔がこわばった。西本は立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。


「オレはまだ完全に信頼されてるわけじゃないのか!」
実は、この時、広島の古葉竹識監督と江夏の間でも、気持ちにズレが生じていたことを西本は知らなかった。江夏はバッターに集中できていなかったのである。『江夏の21球』から引用してみたい。

〈 江夏は、三塁側、自分のベンチの動きも見逃すことがない。池谷がピッチング練習を始めたのも見ている。さらにそのあと、北別府もブルペンに向かって走っていくのも江夏は見ている。

《 なにしとんかい! 》

江夏はそう思った。それにはいろいろな思いがこめられている。

《 このドタン場に来て、まだ次のピッチャーを用意するんかいうことですね。

そうか、オレはまだ完全に信頼されてるわけじゃないのかと、瞬間、そう思った。

ブルペンが動いた。なんのためにオレはここまでやってきたんや。そう思って、釈然とせんかった。ブルペンが動くとは思っていなかったからね 》 〉

しかし、古葉の指示は、しごくまともに見えた。7回の途中にマウンドへ上がった江夏は、すでに3イニング目に入っていた。また、同点で延長戦に突入することも考えれば、交代のピッチャーも用意しなければならない。古葉は当然の準備を始めたにすぎなかったが、結果的に江夏の気持ちをかき乱すことになった。佐々木への2球目に、江夏がふと甘いストレートを投げた背景にはこうした事情もあった。三塁線ギリギリのファウルとなった3球目も、インコース高めの甘いカーブだった。

だが、そんな江夏を、チームメイトのひと言が救う。

江夏が佐々木を2-1と追いこんだとき、衣笠がマウンドに近寄った。そこで衣笠はこういったのだ。

《 オレもお前と同じ気持ちだ。ベンチやブルペンのことなんて気にするな 》

江夏がいう。

《 あのひとことで救われたいう気持ちだったね。オレと同じように考えてくれる奴がおる。オレが打たれて、何であいつが辞めなきゃいかんのか、考えてみればバカバカしいことだけどね。でも、オレにはうれしかったし、胸のなかでもやもやっとしとったのがスーッとなくなった。そのひとことが心強かった。集中力がよみがえったいう感じだった 》


衣笠のひと言が、江夏のピッチングを完全に蘇らせた
面白いデータが残っている。江夏の投げるストレートの「球速」である。気持ちがかき乱されている時、江夏のストレートは130km台前半しか出ていない。ところが、いったん開き直ってしまえば、とたんに130km台後半へと跳ね上がるのである。もちろんプロのピッチャーとしては、130km台後半のストレートでも遅い部類に入る。しかし、江夏は、鋭く曲がり落ちるカーブのキレとコントロールに絶対の自信をもっていた。ストレートの球速が5~7kmアップするということは、このカーブの威力を倍加させるという意味も持っている。

衣笠のひと言は、江夏を冷静にさせただけではなかった。それ以降の江夏のピッチングを左右するほど大きなターニングポイントになった。ツキが、広島のものになった瞬間でもあった。


最後の最後で完全に開き直れない人、それが西本
佐々木が、改めて右のバッターボックスへ入る。ツーストライク、ワンボールから、江夏が4球目を投げる。インコース高めのカーブに、佐々木がバットを振る。当たり損ねのファウルだった。

「このファウルの後、ミーティングでのスコアラーの話を思い出すわけ。今年の江夏さんはストレートがよみがえっとる。変化球で追い込んだら、ストレート勝負が多い、と。だから、そろそろストレートやろうと思った」

その読み通り内角低めのストレートが来る。ボール。

「さすがの江夏さんも力んでる。今のは決めに来たんや。それが、力んでボールになったんや」

佐々木は、そう思った。しかし、その読みは、ものの見事に外れていた。

江夏は、力んでなどいなかった。衣笠のひと言で冷静さを取り戻し、逆に「どんな結果になってもよい」と開き直っている。開き直った時の江夏は、最高のピッチングをする。このインコース低めのストレートこそ、その次のボールで佐々木を仕留めるための捨て球だった。

ツーストライク、ツーボールからの6球目、江夏はカーブを投げる。一つ前の捨て球と同じ球道で、ボールはホームベースへと向かっていった。

「ここでは、アウトコースのストレートか、カーブにタイミングを合わせて待った。そこへカーブが来た。もう『ヨッシャー』という感じやったね」

しかし、佐々木の頭の中には、捨て球のストレートのイメージが残っていた。

「あっ、もう一つ抜いた(スピードを抑えた)カーブや」

そう思った時には、すでに遅かった。佐々木のヒザ元へ鋭く曲がり落ちるボールに、バットがあっけなく空を切る。ベンチの西本の顔が、鬼の形相になった。

ワンアウト満塁となって、石渡がバッターボックスに入った。開き直った江夏は、投球術の神髄を取り戻している。1球目は、外角から入るカーブだった。近鉄ベンチの様子を窺う意味もあった。石渡がストライクをあっさりと見逃したことで、江夏は「スクイズがあるはずだ」と考え、西本は「スクイズしかない」と思う。

その瞬間、西本の脳裏に、19年前の満塁スクイズ失敗のシーンが鮮明によみがえってきた。人間という生き物は、それが苦い体験であればあるほど、最も思い出したくない場面で思い起こしてしまうものである。西本は考えた。

「石渡はバントがヘタクソやから失敗するかな? まあいいや。失敗したら、オレが責任をとればいい」

西本は、開き直れなかった。最後の最後に至っても、完全に開き直れない。それが西本という人だった。


「勝ちたかったよ。でも、まあ、これも天の定めちゅうのかな(笑)」
19年前、大毎オリオンズの新米監督の時、西本は神経性胃炎で、1年間下痢に苦しみ続けた。西本には「闘将」というイメージがあるが、意外に細やかな神経をしている。この広島との日本シリーズでも、ストレスから胃に3つも穴が開いていた。ストレスを内にため込むタイプなのである。だからこそ、このスクイズを決断する時にも、「オレが責任をとればいい」とストレスを自分の腹の中にため込んでしまった。

人間臭い話である。しかし、この人間臭さが、西本の弱さだったのかもしれない。石渡が、スクイズを失敗する。三塁ランナーが挟殺されて、ツーアウトになる。石渡もツーストライクと追い込まれる。西本には、すでになす術もなく、自身の手で育てあげた猛牛の息の根が止まる瞬間を見届けるしかなかった。その視線の先で、石渡のバットがむなしく空を切った。

西本は、翌'80年もリーグ優勝を果たす。だが、日本シリーズでまたも広島に屈し、監督生活通算20年で8度挑戦しながら、ついに日本一にはなれなかった。誰にも真似できない指導法で、阪急と近鉄を見事な攻撃型チームに育てた。しかし、「天の采配」には勝てなかった。

「そりゃあ、勝つに越したことはないし、勝ちたかったよ。でも、まあ、これも天の定めちゅうのかな」

西本は、そう言って笑った。

「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-胴上げモノクロ 西本幸雄


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
海外展開に伴い協力会社を募集します。語学力があれば起業を考えている方でも大歓迎!…お勤めしながらの週末起業でも十分可能かと……気軽にお問合せ下さい。…詳しくは⇒http://ameblo.jp/e-fh/entry-10863926030.html

当社は、一棟マンション、一棟アパートを専門に取り扱う不動産会社です。
[twittre http://twitter.com/e_fh ]
[facebookフアンページ http://www.facebook.com/efh.toushi ]
[e-不動産販売 検索サイト http://www.e-fudousanhanbai.com ]
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー