名作ノンフィクション 「江夏の21球」 はこうして生まれた | 現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。

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「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-カープ力投 江夏豊

Numberより 名作ノンフィクション「江夏の21球」はこうして生まれた

http://number.bunshun.jp/articles/-/12218

1980年、日本初のスポーツ総合雑誌として創刊された「Sports Graphic Number」の誌面に、画期的なノンフィクション作品が掲載された。「江夏の21球」は、日本シリーズの最終戦で広島のピッチャー江夏豊が投じた21球の裏にある心理と智略を見事に描き出し、スポーツジャーナリズムに新しい可能性を拓いたのだ。

アスリートの内面に肉薄するという「Sports Graphic Number」を今も貫くスタイルが生まれた瞬間を、当時の編集長岡崎満義が1986年に記した文章で振り返りたい。


リリーフ投手のイメージを変えた――江夏豊の出現
『スポーツグラフィック・ナンバー』というスポーツ誌をやれ、といわれてから実際に発行するまで準備期間は七カ月あったが、「イケル!」と確信できたのは、江夏豊に会ったときだった。それは昭和55年1月2日、大阪のロイヤル・ホテルの一室であった。


江夏は何時間かのサイン会のあと、さすがに少し疲れた様子で、われわれが待つスイートルームにやってきた。その日は二つ、江夏に頼みたいことがあった。一つは『ナンバー』の創刊キャンペーンの「駅貼りポスター」に、上半身ハダカの写真をとらせてもらいたい、という交渉。もう一つは、前年の日本シリーズの第7戦、9回裏の近鉄の攻撃をビデオテープで見ながら、江夏の投げた21球について、その一球一球をことこまかに解説してもらうという仕事であった。

その二年くらい前から、江夏はリリーフ投手のイメージを大きく変えつつあった。江夏以前にも「8時半の男」といわれた巨人の宮田征典投手はいた。しかし、なんといってもそのころはなお、投手といえば「完投」能力のある投手こそが第一人者、リリーフは9イニングスを投げ切れない半端な投手のやる仕事だと、誰もが思っていたのである。

そういうイメージが江夏の出現で変わりつつあった。リリーフ投手のセーブ・ポイントも正式に記録表示されるようになった。江夏は南海から広島に移籍した年から、130試合すべてベンチ入りしていた。それまで投手は、1試合投げれば少なくとも翌日は休息日で、ベンチ入りはしない。投手が全試合ベンチ入りして、いつでもリリーフする態勢をととのえているなどということは、考えられないことであった。その考えられないことを、江夏はやってのけたのである。

新しいタイプのヒーローが出現したのである。『ナンバー』創刊号は江夏をとりあげようと思った。この新しいヒーローをどう料理したらいいだろう、と『ナンバー』編集部は何度も編集会議をした。最後にぼくは「江夏の経歴を洗って人物クローズアップ的な手法をとるよりも、広島―近鉄の日本シリーズの最終戦で彼が投げた21球を徹底的に“解剖”する方がより江夏の本質に迫れるのではないか。

最後までもつれ、あれだけ手に汗をにぎらせたゲームはない。そのゲームで見せた江夏の技術を追求してみよう。それにはトータルに江夏を理解しようと試みるより、21球というディテールの中の江夏を追究する方が、江夏の本質をよりよく理解することになるだろう」と思った。

愛すべき神は細部に宿る、というではないか。江夏の“細部”21球に徹底的にこだわるべし、と決心した。問題は江夏がどれだけフランクに取材に応じ、こちらの質問に答えてくれるか、である。

テレビ局から問題の広島―近鉄第7戦9回裏のビデオテープを借り、正月休みの電器店に頼みこんで、ビデオセットとテレビをホテルの部屋に運んでもらった。筆者には新進のライター山際淳司さんを頼み、元巨人コーチ瀧安治さんにも同行してもらい、三人で江夏にいろいろ質問することに手筈(てはず)をととのえた。

「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-スクイズ 江夏豊

江夏の目は、打球の行方さえ追わなかった
54年の日本シリーズは最初、近鉄が優勢だった。どうしても日本一の座にすわれない悲運の闘将・西本幸雄監督の夢が、今年こそ実現するかと思った。しかし、途中から山根和夫投手や高橋慶彦(よしひこ)、水谷実雄(じつお)などのふんばりで広島がもり返し、3勝3敗ともつれこみ、最終戦を迎えていた。試合は昭和54年11月4日、大阪球場で行われた。広島カープは1回、3回に各1点、そして6回に水沼四郎の2ランが出て優位にたった。しかし近鉄バッファローズも粘った。5回裏に平野光泰の2ラン、6回に1点を追加して1点差とし、俄然(がぜん)試合はもりあがってきた。

江夏は7回裏、ワンアウト、ランナー1塁で福士明夫投手をリリーフした。ちょうどそのころから小雨が降りはじめ、薄暗くなったグラウンドに照明灯が点灯された。江夏は7回、8回と簡単に近鉄打線を抑え、いよいよ9回裏に入った。江夏の調子からみて、よほどのことがないかぎり、4-3で広島逃げきりムードが漂いはじめた。

9回裏、近鉄最後の攻撃。バッターボックスには6番打者の羽田耕一が入った。西本監督がとくに目をかけ、中心打者に育てるべく、拳骨(げんこつ)をふるったという秘蔵っ子である。ムラッ気があるのか、もうひとつ確実性がない。

1点差を追う近鉄。ふつうなら第一打者はなんとかねばって四球でもいいから出塁しようとするものだ。打つにしても慎重に攻めようという気になるはずだ。ファースト・ストライクを打つわけがない、と江夏は思っていた。おどろいたことに、羽田は第1球を打ってきた。外角の直球をみごとにジャストミートした。ボールはライナーとなってセンター前に飛んだ。江夏の緻密な頭脳が猛烈な勢いで動きはじめる前、出会いがしらにガツンと打たれたような感じである。

出塁した羽田に代わって予定どおり、代走は藤瀬史朗である。次打者はアーノルド。江夏は、ランナーは二の次、アーノルドだけに気持ちを集中させようと、自分に言いきかせた。第1球は外角高目のシュートでボール。第2球は内角高目の直球でボール。第3球は内角ベルトのあたりの直球でストライク。カウント1-2。第4球、外角低目の直球がはずれてボール。

このとき藤瀬が猛然と二盗を敢行した。単独スチールに見えたが、実はヒット・エンド・ランだったのを、アーノルドがサインを見落としたのである。しかし、水沼捕手の送球はワンバウンドしてセンターに抜け、駿足の藤瀬はやすやすと3塁まで進んだ。スタートが遅れ、瞬間、タッチアウトを観念した藤瀬だったが、逆に水沼の悪送球をさそって、3塁まで進塁というおまけがついた。無死3塁。近鉄にとっては願ってもないチャンスとなった。アーノルドのカウントは1-3。

江夏は外野フライを警戒して、5球目は内角低目にカーブを投げたがボールとなり、1塁に歩かせた。代走に吹石徳一(ふきいしとくいち)が起用された。足の速い選手を使って、心理的に圧迫を加えようとしていた。

三人目の打席に平野光泰が入った。平野はこの試合、5回にホームランを放ち、気をよくしている。気分屋の平野が調子にのると怖い。第1球真ん中高目の直球でボール、第2球内角低目のカーブを空振り、第3球は第1球と同じく真ん中高目の直球がボールになったとき、吹石は二盗に成功した。こうなれば満塁策しかない。あと2球つづけてボールを投げ、平野は敬遠のフォアボールで1塁に歩いた。9回裏、広島は1点リードしているとはいえ、近鉄はノーアウト満塁、押せ押せのムード。広島絶体絶命のピンチを迎えたのである。

次は佐々木恭介がボックスに入った。江夏はこの佐々木に対して、内角低目のカーブ(ボール)、外角低目の直球(ストライク)、と投げて第3球目は真ん中低目のフォーク。佐々木のバットは鋭くとらえた。打球は快音を発して3塁線を痛烈にゴロで抜いたかと思われたが、わずかにラインの左にそれた。もう30センチばかり内側を抜けていたら、サヨナラ2塁打であった。

しかし江夏にいわせると「あのコースの球を引っぱると絶対ヒットにならないんや。ボテボテの内野ゴロか、いい当りをしてもファウルになる球筋なんや」という自信満々のボールだった。だから、佐々木のバットは快音を発したが、これはファウルだ、と確信して打球の行方すら追わなかった。



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「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-ファイターズ 江夏豊

「Sports Graphic Number」創刊に際し、編集長は江夏豊への取材を試みた。テーマは、前年(1979年)の日本シリーズ最終戦で投じた21球。ホテルの一室でビデオを見ながら機嫌よく自らの投球を解説していた江夏だが、突然に顔をこわばらせた。

「お前が辞めるなら、オレもユニフォームを脱ぐ」
http://number.bunshun.jp/articles/-/12049
佐々木への第4球を投げる前に、テレビの画面は、1塁手の衣笠祥雄がマウンド上の江夏のそばにやってきて、何ごとかひとことふたこと、話しかけるシーンになった。

「江夏さん、衣笠はこのとき何をしゃべったんですか」

と、ぼくは江夏にたずねた。ところが、それまで機嫌よく、まことに明快に自分の一球一球を解説してくれていた江夏が、急に表情をこわばらせて、

「それは話すわけにはいかんな」

と、言ったのである。意外であった。

「どうしてですか」

「いや、これにはちょっとわけがあるからな、まだ話せんのや」

「そんなこと言わずに、教えて下さいよ」

「いや、やっぱり駄目や」

そんなちょっとした押し問答があった。仕方なくそのシーンはそのままにして、とにかく最後までビデオを見ることにした。そのあともこの場面以外は江夏はまた明快に話してくれた。少し休んだあと、もう一度ビデオテープを巻きもどしてあらためて最初から見ることにした。聞き落としたことなどを質問し、江夏の言いたりない点を補充するためである。

二度目に問題のシーンにぶつかって、しぶる江夏をとうとう口説き落とした。

江夏はそのとき、頭にカッと血が上っていたのである。藤瀬が3塁、アーノルドの代走・吹石が二盗をきめたとき、広島のベンチから3塁のブルペンに池谷公二郎と北別府学が走り、投球練習を開始したのである。江夏はそれを見て、自分の目を疑ったほどであった。

この土壇場にきて何でリリーフ投手を準備するのだ。オレこそ、今年一年130試合すべてにベンチ入りして、監督の声がかかればいつでも飛びだしたリリーフ・エースではないか。オレ以上のリリーフがいるわけがない。絶体絶命のピンチは腹をすえてリリーフ・エースのオレにまかせていいではないか。なのに、ブルペンで二人がピッチングをはじめている。結局オレは監督から完全な信頼を得ていなかったのか。何のために130試合ベンチ入りしてきたのか。

「マウンドにグローブを叩きつけてベンチに帰りたい気持ちやった」と、江夏は言った。

江夏と衣笠はチームの中でいちばん気の合うチームメイトであった。衣笠には、江夏のやり場のない怒りが、いまにも爆発しそうな風船のように、ふくらんでいくのがわかった。自尊心を傷つけられた江夏は、放っておけばマウンド放棄も辞さないように見えたのである。それどころか、ユニフォームを脱ぐかもしれないと思われた。こいつはヤバイ!

気配を察した衣笠はマウンドに歩み寄って、いきなりこうささやいた。

「おまえがユニフォームを脱ぐなら、オレも辞めるぞ」

そのひとことを聞いて江夏は、

「ああ、オレの気持ちをちゃんとわかってくれてるヤツがいる!」

そう思ったとたん、それまで怒りで爆発しそうになっていた気持ちが、スーッとおさまり、集中力を回復したという。古葉監督に対する不信感と、衣笠に対する感謝の気持ちを、マウンド上の江夏はほんの数十秒の間に味わったことになる。これが問題の江夏―衣笠の立ち話シーンであった。


「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-タイガース 江夏豊

近鉄のバッターよ、おまえらも全力でぶつかってこい!
古葉監督がそのとき考えていたのは、同点で延長戦に入ったときのことである。日本シリーズでは午後五時半をまわって新しいイニングに入らないという規定がある。そのとき時計の針は四時半をさしていた。まだ時間は十分にある。もし延長戦に入れば、江夏に代打を出すケースもありうる。とすれば、江夏をリリーフする投手の準備をしなくてはならない。古葉監督は当然やるべきこととして、池谷と北別府に投球練習を命じたのである。

江夏の気持ちはまるで違っていた。江夏にとってこの試合、この9回裏が今シーズンをしめくくる最後の場面なのであった。勝つか負けるかのどちらかしかないと意識されていた。引き分けとか延長とかということは考えもしなかった。これが130試合のペナントレースの1試合だったら、江夏の感情もこれほどまでにたかぶることはなかったであろう。一年のどんづまりのゲーム、という意識が強かった分だけ、古葉監督への不信がつのったのだ。

この9回裏の二人の気持ちのすれちがいが、シーズンオフの江夏放出、日本ハムの高橋直樹投手とのトレードに発展したのではないかとかんぐりたくなるが、その後、江夏と古葉の二人にたしかめてみると、そんなことはないと二人とも強く否定した。

しかし、真っ赤に焼けた鉄を打つとき、まじりこんだ異物がそのまま鉄の中に鋳込(いこ)まれて傷痕(きずあと)を残してしまったのではないか、という気持ちもまだ少しある。そのまた一方で、江夏の野球人生の最高場面といってもいいあの「9回裏」は、まさしく高温高圧の溶鉱炉のようなもので、少々の異物など瞬時に蒸発したとも考えられる。決定的瞬間に起こった出来事だけに、ぼく自身はいまもどちらとも決めかねている。

とにかく江夏は、衣笠の「おまえがユニフォームを脱ぐなら、オレも辞めるぞ」というひとことを耳にして、気持ちが平静になったのである。集中力を回復した江夏は再び打者にたち向かっていく――。

その話を聞いたとき、「できた」と思った。テレビはロングショット、クローズアップをさまざまな角度から自在に使いこなして、球場で見る以上に野球のシーンを面白く、克明に見せてくれるが、それでもなお見えないものがある。それはプレーヤーの心だ。

江夏―衣笠の例でいえば、二人が何か話しているシーンは見ることができるのだが、何を話しているのか、二人の心理がどうなっているのかは、テレビには映らないのである。スタンドで見ていても、もちろんわからない。それを取材の仕方――たとえばビデオという武器を使うことによって発掘できる、という確信をそのとき得たのである。

9回裏の場面をつづける。

衣笠のひとことで心がスーッとした、という江夏はこんなことを考えた。

「それにしても無死満塁。どう考えてもこっちが不利。たぶん、逆転負けになるだろう。しかし、同じ負けるにしても、四球の押し出し、野手のエラー、ポテン・ヒットなんかで負けたくない。負けるならホームランでもヒットでも火の出るような当りをされて、いさぎよく負けたい。オレはそういう気持ちや。近鉄のバッターよ、おまえらも全力でぶつかってこい! そう思ってあとのバッターに対したんやね」

これがリリーフ・エースの美学である。自尊心というものである。佐々木は結局、3塁線の惜しいファウルのあと、内角高目のカーブをまたファウル、次は内角低目の直球でボール、最後、内角低目のカーブで空振り三振だった。集中力をとり戻した江夏がのりうつったような力のこもったボールだった。これでワンアウト。

次は石渡(いしわた)茂である。まだ一死満塁、近鉄のチャンスは続いている。近鉄の一打サヨナラの場面は依然(いぜん)として続いている。一般的にいえば近鉄有利である。しかしすでに、腹立たしい気持ちが完全にふっきれて無心の状態にある江夏の方が石渡より優位に立っていた。近鉄にほほえみかけていた勝利の女神が江夏と石渡を見くらべ、こんどは広島に顔を向けはじめたのである。

追いつめられて緊張した石渡は第1球の内角高目のカーブを茫然(ぼうぜん)と見送った。ストライク。第2球にスクイズのサインが出た。石渡はそれを確認した。江夏は2球目、カーブを投げるつもりで投球動作に入ったとき、石渡のバットがスーッと動くのを目の端(はし)でとらえた。スクイズだ! いつくるか、いつくるか、と思っていたものが、ついにきたという感じだった。

スクイズをはずすには、速い球を外角高目にはずすにかぎる。それが定石(じょうせき)である。しかしこのとき江夏はカーブの握りのまま、投球モーションに入っていた。もはや握りなおすことはできない。そのままの握りで、思い切って外角高目にはずすボールを投げた。石渡が差し出したバットはとまどったように揺れ、空振りにおわった。球はバットの下をくぐり抜けて、水沼捕手のミットに入ったのだから、当てられないような球ではなかった。緊張のあまり、石渡の腕が縮んでいたのだろう。

3塁ベースを勢いよく飛び出した藤瀬は、あえなく3本間で挟殺(きょうさつ)された。一瞬にして2アウト、ランナー1、2塁。石渡のカウントは2-0。江夏は完全に優位にたった。打者の石渡はさらにかたくなり、からだ全体が縮んでいくような気がした。3球目の内角低目の直球を、振りおくれ気味に1塁線ファウル。それがやっとだった。江夏にとって9回裏の21球目は内角低目のカーブだった。石渡のバットは空を切った。三振。ついにゲームセットとなって広島の優勝が決まった。


テレビ中継では描けないドラマ
ある一つのシーンに徹底的にのめりこんでいくには、時間をストップさせなければならない。現実の時間を追いかけていくテレビ中継ではそれはできない。球場に足を運んでも不可能である。当事者が心を開いて語ってくれるときにはじめて可能になる。

スポーツはドラマだとよく言われる。これはスポーツには筋書きがなく、何が起こるかわからないことを言ったことばである。ハプニングの風にうたれる心地よさ、カタルシスと言いかえてもいい。

実は、もう一つのドラマがある、と江夏の21球の取材をとおして感じた。精神、頭脳のドラマ性とでも言ったらいいだろうか。何が起こるかわからない、というドラマでなく、むしろ、どのシーンにドラマを発見し、発掘するか、というそのときの「ドラマ」である。

江夏の9回裏の21球の中にドラマがあるはずだ、とまず直感した。そしてビデオという武器を使って、江夏の心を開き、21球の一球一球にこだわりつづけているうちに思いもよらない江夏―古葉、江夏―衣笠の間に生じた「ある感情」が見えてきたのである。

その「感情」は野球の選手だけに特別に発生するものではなく、広く人間に共通する「感情」である。野球を見ながら、いつのまにか「人間」を見ているのである。そういう共感のドラマを発掘できると確信した。

「江夏の21球」は若いライターの山際淳司さんが上手に書いてくれた(角川書店刊『スローカーブをもう一球』の中に入っている)。山際さんがスポーツ物を書いたのはこれがはじめてであった。このドラマ発掘は山際さんにとっても新鮮な経験となったらしく、以後、次々とスポーツ物を書いていくようになった。

スポーツはなぜ面白いのか。なぜあんなにわれわれの心を熱くするのか、の答えもその「人間」のドラマの中にある。スポーツはヒューマニズムである、と言い切っていいと思う。人間の肉体と精神の動きが読みとりやすい形で露出してくる。

それに身を寄せ、心を寄せ、共感するだけでいい。スポーツはクルマや冷蔵庫などの物をつくったりすることはない。実業ではなく虚業である。しかし、それ以上に大切なヒューマニズムを強化するものである。そこが「たかがスポーツ、されどスポーツ」といわれるゆえんである。



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「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-田淵と 江夏豊

たった21球の裏にある物語を、鮮やかに語って見せた江夏豊。ふてぶてしく見える態度とはうらはらに、リリーフ投手の精神的重圧のなかで、繊細な感覚を研ぎ澄ましていた。以下は、その後日談である。

最終戦の前夜、江夏は寝ていなかった
http://number.bunshun.jp/articles/-/12108
「江夏の21球」は予想以上にうまく取材できた。スポーツ選手の取材で、これほどしっかり核心をつく取材ができた、というより、取材対象の人間が、これほど正直に、しかも微に入り細をうがつように話してくれることは、滅多にあることではなかった。

たぶん江夏は、21球について話したくて仕方なかったのである。自分が体験した火傷(やけど)しそうな灼熱の時間、江夏の劇を誰かに発見してもらいたかったのである。だからこそ、これだけ心を開いて己を語ったのだ。

本稿のために新しくした取材でも、話はいつしか「江夏の21球」になっていた。

「あのゲームを経験して、もう一歩泥沼に入りこんでしまったという感じやね。あれは単なる偶然、ラッキーでできたものじゃない。自分の頭と腕で『最高にやったぞ!』という試合やったからね。人からもあんな絶体絶命のピンチを抑えたんだから、どんな場面でも江夏なら抑えてくれるという大きな期待をかけられる。

もちろん、それが大きな励みになったんやけど、その反面、重荷になって苦しかったな。偶然であんなことができたのだったら、重荷にもならなかった。これ、やった者にしかわからんやろうね。あれ以後、野球という底なしの泥沼に、ズブズブ入って身動きならなくなったもんね」

いわば“禁断の木の実”を食べた者だけが知る愉悦と苦しみ、というふうなものであろうか。

実はあの日、54年11月4日、江夏はほとんど寝ていなかった。前夜、親友の衣笠と二人で京都へ繰り出し、ドンチャン騒ぎをして朝帰りしていたのだ。大阪では顔を知られていて、人目がうるさい。タクシーを飛ばして京都へ行って羽を伸ばした。朝方、大阪のホテルへ帰り一時間ほどウトウトすると、もう球場入りの時間である。赤い目をして球場に行って軽い練習のあと、試合の始まる少し前から丹念なマッサージを三、四〇分受けた。

貴重な睡眠の場でもあった。試合が序盤の3回に入ると、江夏はやおら起きて煙草を一服吸い、トイレへ入ってスッキリする。試合の経過は刻々と江夏に伝えられてくるが、ほとんど上の空で聞き流している。まだ江夏の「野球の時間」ではない。アンダーシャツを着がえて5回からベンチへ。この瞬間から江夏の頭と体は鋭く野球に反応しはじめる。相手チームの打者も味方チームの打者も区別をつけず、ボックスに入る打者を一人一人細かく観察する。

観察というより、飢えた狼が牙を剥き、鋭い嗅覚で獲物を嗅(か)ぎまわっているようなものだ。この打者は今日はよくバットが振れているが、膝(ひざ)元で勝負できそうだ。……一人一人に対して頭の中で配球を考え幻のボールを投げてみる。これが江夏にとって最も大切な登板直前の「イメージ・トレーニング」なのだ。

グラウンドで繰りひろげられている現実の試合と、江夏の頭の中でつくられていくもう一つの試合と、いわば「外」と「内」の二つのゲームが、しだいに江夏の体を万力(まんりき)のようにしめつけ、熱くしていく。マウンドへ登る高揚した気持ちが生まれてくる。

ベンチへ入った江夏はボールを左手からはなさない。入団三年目に肩をこわし、つづいて肘(ひじ)をこわし、血行障害もでた。少々の痛さは我慢できても、腕のしびれや感覚のなさはどうにもならない。左手にもった箸(はし)を、ポロッと落とすことも何回かあった。

いまでも左の握力はふつうの人以下の30キロぐらいしかない。血行障害によって左右の手の体温が違い、したがって、皮膚感覚も違う。そのため、急にボールを握っても手になじまないのだ。たえずボールを握って、早く自分の皮膚とボールが“いいお友だち”になってくれよ、と囁(ささや)いているのだ。

「日本シリーズというのは独特の雰囲気があるんです。第7戦までやると、同じ対戦相手と一〇日近くゲームをすることになるので、精神的に飽きてくるんやね。ペナントレースは3連戦方式で次々に相手が変わる。これが新鮮な刺激を与えてくれる。いい気分転換になるんです。日本シリーズは同じ相手と6回も7回もつづけて試合をすることになるので、ほんとに疲れるんです」

江夏の中にドテッとトグロを巻く倦怠感に似たものを一掃するための夜遊び、盛大な深夜のお祭りが第7戦の前夜にあったのである。江夏にはそれまで一度も優勝の経験がなく、日本シリーズももちろん初体験である。ペナントレース130試合、そしてシリーズ7試合、実に一年間に137試合もベンチ入りしたことになる。

リリーフ投手の宿命で、登板はいつでもピンチのときと決まっている。最も神経を使う仕事だ。事実、江夏は広島カープ時代、神経性の胃潰瘍(いかいよう)で慶応病院に入院したことがある。いつでも神経をピリピリ尖(とが)らせていなければならないのだ。そんな状況を137試合も経験してきているのだから、精神的な疲労感がどれほど蓄積されているのか、想像もつかない。

第7戦7回裏一死走者1塁で福士投手をリリーフしてマウンドに登ったとき、江夏が真っ先に思ったのは「これで今年の野球は完全に終わりや!」ということだった。


投手人生で最高の一球はインローのカーブ
江夏の長い投手人生の中で、あえて「最高の1球」をあげてほしい、という難題をもちかけると、江夏はしばらく「ウーン」と唸って考えこみ、「やっぱり、“江夏の21球”の中で佐々木恭介に投げたインローのボールになるカーブやろな。あれだけ考えたとおりの組み立て、狙いどおりのコースにいい球がいったんだから、最高やったな」

佐々木はもののみごとに空振りの三振に討ちとられた。「あんなボールをほうれたのはオレしかいない」と江夏は胸を張った。

江夏は正確なコントロールに必要なのは、精神と投球フォームのバランスのよさだと確信している。フォームのバランスは時計の歯車と同じで、一つ狂うとすべての歯車が狂ってくる。どこに手をつけていいかわからなくなる。ひどいスランプに入ったとわかるのは、江夏の場合「足」であった。モーションを起こして膝(ひざ)を上げたとき、すぐに足が地面におりてしまう感じなのだ。

膝を残そうと意識すると体全体のバランスが微妙にズレてきて、膝でいいタイミングがとれない。足が自分の意に反して早く下りていくから、球が早く手からはなれてしまう。自信のある投手ほど球ばなれが遅く、それだけ打者はボールを見にくくなり、打ちにくい。自信のない投手ほど早く球をはなしてしまう。これは人間の本能だといっていい。投手に自信がなければ打者は怖い存在になる。怖くなればなるほどボールを早くはなしたい、という気持ちになってしまうのだ。

そういう状態が投手のスランプというものであり、投手の前に、ある日、立ちふさがるように姿をあらわしてくる“巨大な壁”なのだ。

江夏も何度かそんなスランプに襲われ、苦しんだ。そのたびにひたすら練習をし、工夫(くふう)を重ねて、その壁を乗り越えてきた。らせん階段を上る人をはるか真上から見ていると、同じ円周上を永久に歩きつづける円運動に見えるが、真横から眺めるなら、確実に上昇している。スランプを克服して、新しい境地がひらけるとはそういうことなのかもしれない。

江夏が佐々木に投げた第6球目の内角低目のカーブは、まさに精神とフォームのバランスのとれた最高の状態で投げ込んだ、生涯の1球だったのである。


「甲子園はオレのものや」
この1球に次いでもう1球あげるとすれば、阪神時代の最後の年、昭和50年10月1日、甲子園で広島と対戦したときのボールだ。広島は初優勝を目前にしていた。全国は赤ヘルブーム。甲子園も真っ赤な赤ヘルがスタンドを埋めた。この試合は5-3で阪神が勝ったのだが、終盤、二死満塁で相手打者は衣笠というピンチを迎えた。

一打同点。この衣笠、広島時代には一番の親友になっているのだから、いささか因縁めいた話になる。衣笠は2-3と粘りに粘った。江夏はこのときはじめて“意識”して、内角胸元へボールになるストレートを渾身の力を込めて投げた。これまた体がねじれるほど渾身の力を込めて振った衣笠のバットは、空を切った。三振。

二死満塁ボールカウント2-3で“意識して”ボールを投げたのは、このあともう一度だけある。昭和57年、日本ハムに移って、これまた西武へ移っていたかつての“女房役”田淵幸一に対して投げたボールだ。このとき田淵は外角高目を狙っているのがすぐに読みとれた。

田淵の目がそのように動いている。となれば勝負球は狙った点からボール一個はずれた外角高目のボール球しかない。ストレートは狙いどおりに走り、田淵は計算したように空振りした。三振。見送られたら四球で押し出しという危険な綱渡りであったが、この球なら思わず手を出してくる、と信じて疑わなかった。おそるべき自信であった。

江夏は衣笠を2-3のあとのインハイのボール球で三振に討ちとったあと、記者会見で、「ここは甲子園球場や」とひとことしゃべっている。もうそのころ、江夏の肩はガタガタになって激しく痛んでいた。気力だけで投げ、衣笠をきわどいボールで三振に討ちとった。「甲子園はオレのものや」という江夏の心意気がヒシと伝わってくるではないか。



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「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-野村 南海 江夏豊

名投手江夏に苦難の時代が訪れた。阪神→南海→広島→日本ハム→西武と渡り歩いた江夏は、ついに引退。最後にブリューワーズが行った春キャンプに参加し、大リーグに挑んだ。
http://number.bunshun.jp/articles/-/12034
野村克也監督との出会い――“投手の革命”に挑戦する

この年のシーズンオフ、江夏は吉田義男監督から“追放”された。肩を痛めた問題児は必要ないと見放されたのである。江夏は「自分は阪神の江夏」と思ってきた。おまえはいらない、といわれて、なお未練たらしく他チームで野球をやるつもりはなかった。いさぎよく球界から身をひきたいと思った。

そんなとき、南海の野村克也監督から、突然、一度会って話がしたいと連絡があった。野球をやめるつもりだったから、何の期待も抱かずに、では会うだけは会ってみようと、野村に会った。

野村はボソボソとした声で、10月1日の広島戦のことを話題にした。

「衣笠の2-3のあとに投げた球、意識してボールを投げたやろ」

とズバリ指摘した。内心驚いた。ちゃんと見てくれてる人もいる! 野球の指導者に対する不信感が揺らいだのである。このときの野村の慧眼(けいがん)がなかったら、その後の江夏は存在しなかった。昭和51年から南海へ移り、野村のアドバイスをうけて「リリーフ投手」に変身、さらに広島に行ってリリーフの仕事を磨いたのだ。

江夏は南海に入って二年目の52年5月31日、対近鉄戦に先発3回3分の1を投げて4点とられて降板。以後、リリーフに徹することになる。どうしても先発完投の夢が忘れられなかったが、肩と肘の状態を的確に見抜いた野村監督の執拗な説得で、リリーフ投手に踏み切った。

野村に野球の本当の面白さ、奥行きの深さを教わり、もっと話がしたいと野村が住んでいた刀根山マンションに引っ越したほどである。思いこんだらそのままのめりこんでいく江夏の性格がよく表れている。野村から、「投手の“革命”を起こしてみろ」と言われた言葉がいまでも忘れられない。「“革命”という言葉を聞かなかったら依然として先発に固執していたかもしれん」という。

そして広島に移ったあと、衣笠選手が「野球選手は毎日野球せんと駄目や。投手も毎日ベンチに入って戦うべきだと思う」といった言葉にひらめくものがあった。江夏はリリーフ専門で「あがりなし」、つまり毎日ベンチ入りするようになった。これはまさに投手の“革命”である。

江夏はそれまで9回二七人の打者を全部3球三振、81球で試合を終えるのが投手にとって最高だ、と思っていた。ところがリリーフに回ってからガラリと考えが変わった。投手にとって最高の試合は一人1球、27球で試合を片付けることだ、と思うようになった。リリーフ投手は9回投げるわけではないが、一人1球も精神を忘れてはならない、とたえず自分に言い聞かせた。

かつて江夏は「一日に三回試合をする男」といわれた。球場に行く前に一度、本番を想定して投球を組み立てる。そして実際の試合。最後は終わったあと、試合を振りかえって丹念にノートをつける。江夏のノートは大変な分量になるという。それだけの男の「一人1球」にはすさまじい精神のドラマがあるはずだ。


「不動産投資と旅」現役大家さん、現役投資家の生の声を聞かせます。-王を打ち取る 江夏豊

納得できる場所でもう一度投げたかった
江夏の球歴を丹念にたどっていくと、いくつもの「あの一球」に出会う。いくつもの「あの一球」には大きな力がこもり、江夏を投手としての高みにグイグイ押し上げた。

たとえば――昭和43年9月17日、甲子園で阪神-巨人20回戦が行われた。入団二年目の江夏は開幕以来、絶好調だった。向かうところ敵なし。8月8日対中日戦で16三振を奪って金田正一の一試合セ・リーグ奪三振記録タイとなった。

そして迎えた9月17日の巨人戦。江夏は3回高橋一三(かずみ)から三振を奪い、シーズン351個の奪三振セ・リーグ記録をつくった(それまでは金田の350)。次の目標は稲尾和久のもつ日本記録353個である。4回に土井正三、王貞治からさっそうと三振を奪って日本タイ。

ここで江夏は、日本記録はどうしても王選手から三振をとって決めたいと思った。先輩村山実が長島茂雄との対決に全力を投じてファンを沸かせたように、いつでも自分は王と真正面から勝負したる、と心に決めていた。それが男の勝負だ。ファンもそれを喜んでくれるのだ。ライバルは王だ。この年の春のキャンプで、林義一コーチからカーブの投げ方を教わり、「フォークボールみたいな感じの、キュキュッと鋭角的に曲がる」カーブを身につけて強力な武器としていたが、王に対しては自分の最高のボールである速球一本槍で戦っていた。

わざわざ直球の握りを見せて、真っ向から戦いを挑んだ。王も負けずに力いっぱいスイングしてきた。長島にいわせると「3m前からボールの風を切る音が変わる」ほどの、回転のいいスピードボールであった。プレートからホームベースまで18.44mの空中にできた目に見えぬ階段を猛烈な勢いで、クックックッと駆けおりていくような、勢いのある球であった。

とにかくあと1個で新記録である。しかし王に打順が回るまでには八人もいる。「あっ、今日は江夏、狙ってるな、と思ったね。王さんまでまちがっても三振をとらんように打ちやすい球を放(ほう)っていたね。いちばん危なかったのは高橋一三に2-1になったとき。ゆるいボールでセカンドゴロを打たせてホッとしてたな」(捕手・辻恭彦の話)

そして7回、思いどおりに王を2-1から三振に仕留めて354個の日本新記録をつくっている。大胆不敵の離れ業(わざ)である。しかも、この試合は0-0で延長戦に入り、江夏自らがサヨナラ安打で熱戦にケリをつけている。王も江夏と出会ったときから「あの男、オレに特別に執着しているなと思ったね。それでも力と力でぶつかれる格好のライバルがでてきた、という大きな励みになったよ。

三振とられても、こちらがホームランを打っても、江夏との対決はスカッとした感じだけが残っている」となつかしそうに話す。この年、江夏は米大リーグのコーファックスのもつ1シーズン奪三振382個を大幅に破る401個の世界記録を打ち立てている。

江夏―王の対決は昭和42年から55年までに(51、52年は江夏の南海移籍で対戦なし)、本塁打20、打率2割8分7厘、三振57という記録が残っている。ちなみに江夏が最も多くホームランを打たれたのは王(2位は長島の14)であり、また王が最も多く三振を奪われたのは江夏(2位は村山の47)である。

「でもね、20勝とか3割とか、記録ではないよ。プロとは自分の生き様をはっきりさせること。何に美しさを感じるかだ」と、いま江夏は言い切る。そしてそのあとに「いまのプロ野球にはロマンチックな人間は用がなくなったんだ。損得だけの野球だよ。

ONに対戦できたのはほんとに最高の幸福だったね」という言葉がつづいた。ON、とくにO攻略に注いだ異常な熱量、流した膨大な汗の量こそが、江夏を支える財産であった。時を経たいま、汗が乾いて白く残った塩のヒリヒリとした辛さに、戦友・王との友情を感じたりするのだ。


江夏豊たった一人の引退式
そんな江夏が辛い最期を迎えた。阪神→南海→広島→日本ハム→西武と渡り歩いて、江夏は自分の最後を「ボロボロになるまで投げる。自分が全力を出し切って投げたボールを、名もない若造バッターにいとも簡単にスタンドに叩き込まれる。それで終わり。でも胸を張ってマウンドを降りるのだ」と考えていた。しかし現実はそうならなかった。

広岡達朗監督との軋轢(あつれき)が原因で、59年9月10日、西武球場で西武の二軍の若手十七人に対して投げた56球がプロ球界での最後であった。

昭和60年1月19日、『ナンバー』主催、「名球会」後援で多摩市営球場で「江夏豊たった一人の引退式」を行った。引退式は天候に恵まれ、一万人を超すファンが全国から集まった。江夏は阪神の縦縞(たてじま)のユニフォームで背番号28をつけてマウンドに上がり、応援にかけつけた山本浩二、大杉勝男、江藤慎一、福本豊、高橋慶彦、落合博満、辻恭彦らに対して27球を投げてみせた。引退式実現にいたるまでにはいくつものトラブルがあった。しかしそのことはここには書かない(興味のある人は『ナンバー』138号を読んでいただきたい)。

その後大リーグのブリューワーズの春のキャンプに加わった江夏は、たくさんの若いライバルたちと競争し、次々にそのライバルを蹴ちらし、最後の一人の枠(わく)をヒゲラ投手と争う形になって、落とされた。江夏の大リーガーという夢は断たれた。

「大リーグ入りが一番の目的やったら、絶対残ってるでしょう。1Aか2Aからやっていく方法もあったし、次の年もう一回チャレンジすることもできた。しかし、自分がブリューワーズのキャンプに来た最大の目的は、自分の納得できる場所でもう一回投げてみたいということやった。できれば大リーグに入ってやってみたい気持ちも大きかったが、何よりも不完全燃焼でくすぶりつづけている“投手魂”というものを、納得させられる場所がほしかったんやね。

西武の広岡という男に死に場所をとられたんやからね。あのとき、死に場所を大リーグに求めるしかなかった。ブリューワーズのキャンプで納得した。オレと最後まで争った若いヒゲラ投手が、その年、15勝をあげたと知って、実にうれしかった」。江夏の心意気はいまもなお消えてはいない。



江夏豊 (えなつゆたか)
昭和23年5月15日生まれ。大阪学院高出身。選手実動年数18年。通算投手成績829試合、206勝、158敗、193セーブ。投球回数3196回、被本塁打299本、与四球982、奪三振2987、防御率2.49。個人タイトル:最優秀防御率(44年)、最多勝利(43・48年)、最多奪三振(42・43・44・45・46・47年)、最優秀救援(52・54・55・56・57年)、MVP(54・56年)、ベストナイン(43年)、沢村賞(43年)。


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