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Numberより http://number.bunshun.jp/articles/-/154095
巧みな人心掌握、戦術眼に裏打ちされた奇策、そして豪快な語録。
数々のトリックを携えて、3度も全国を制した稀代のマジシャン。
その最後の夏を追い、逸話に彩られた異端の監督術を改めて辿る。
ピリオドではなく、コンマのような終わり方だった。そう、まだ続きがあるような。
場所は、茨城県の「聖地」とでも呼ぶべき水戸市民球場。時計の針は、午前11時50分を回ったところだった。
9回表、2死一、三塁。代打・吉澤宗希の当たりは、ボテボテのショートゴロになった。まだ、信じられなかった。ショートが難なく捕球し、二塁へ送球する。それでもなお、頭がすぐには現実についていけない。
歓喜と、ざわめき。それらが同時に沸き起こる。
常総学院のスコアボードには、確かに、「0」が9つ並んでいた。
0-2
2011年7月27日。晴天。木内幸男が率いる常総学院は、茨城大会の準決勝で敗れた。相手は第4シードの藤代だった。最後の夏だというのに、甲子園まで、あと2勝も、足りなかった。
「甲子園行ったら、パンダになっちゃうからナー。どっちでもよかったんだよ、ホントの話。ガハハハハハハ」
「尋常じゃないもんな、80になっても野球やってるなんて」
試合後、木内は、取材陣と接するときはいつもそうであるように、あくまで陽気に振る舞った。ときどき聞き取れなくなるほどの強い茨城訛り。それさえ付け足せば何を言っても許されてしまいそうな豪快な笑い声。興奮してくると白い泡がたまってくる口の端。それらも、いつも通りだった。
「監督やめっからって、プレッシャー、かけすぎましたね。あんなに選手がかたくなったの、初めて見ました、ハイ。監督なんか、辞めても、死んでも、生きても、関係ないですよ。この歳ですからね。あらー、イヤだ」
木内は、1931年7月12日に茨城県土浦市に生まれた。そのおよそ2カ月後、柳条湖事件に端を発する満州事変が勃発している。もはや歴史の教科書の中の世界だ。
つまり毎年、夏の茨城大会を迎える頃、自分の新しい年齢に気づかされることが恒例行事になっていた。
木内がおどける。
「もう、80だぞ。ショックで寝込みたくなったよ。いや、そんなになったって気がつかないから、監督やってたんだよ。尋常じゃないもんな、80になっても野球やってるなんて。何ごとかって思うよ」
木内が勇退を決断するに至った本当の理由とは?
木内が勇退を決断したのは、この4月だった。
「理事長に『どうだい?』って聞かれたから『もう、無理だ』って。復帰したとき『グラウンドで倒れろ』なんて言われたもんだから、倒れるまでやめられねえんだって、自分からは言わなかったんですけどね。聞かれたら、ダメだって言うしかないでしょう」
まだ監督を続けたかったようにも受け取れる言い方だった。それでいながら、学校側のそろそろ後進に道を譲ったらどうかという空気を感じ取り、自ら辞めると申し出ることで、波風が立つことを回避したのかもしれない。
もちろん、そうであったとしても、学校サイドも木内の身を案じてのことだったのだろう。木内は、あっけらかんとカミングアウトした。
「前立腺ガンだからな。2、3年前から、大学病院、待たせてあるんだ。年だからもうガンは進まないって言われてたんだけど、進んじゃった。治療するなら、今しかねんだ。年だから手術はやってくんないんですけどね」
この夏の木内は、顔や首のあたりがひどくむくんでいた。それも薬の影響だったのかもしれない。
「野球を辞めちったら、治す意味もねんだけどな。あは」
実は2003年に一度目の辞任をしたとき、直後、腎臓にガンが見つかり、手術を行なっていたのだ。
「俺の体は不思議だよー。あのときは、辞めたら、すぐ見つかったんだもん」
木内が常々「麻薬だよ」と語る野球を断った途端、再び何らかの形で「禁断症状」が出ることを怖れているようでもあった。そして、こう小さく開き直った。
「野球を辞めちったら、治す意味もねんだけどな。あは」
その言葉だけは、どれだけふざけてみても、冗談には聞こえなかった。
“木内マジック”を定着させたPL学園との決勝戦
球界広しと言えども、魔術の使い手と称され、それが定着した監督は3人しかいない。西鉄を始めとするプロ3球団を優勝に導き、魔術師と称された三原脩。その三原の教え子、仰木彬。そして、木内幸男だ。
木内マジック――。
いわゆる常識では考えられない作戦や起用法がズバリ的中することから、木内の采配はいつの頃からか、こう呼ばれるようになった。
その印象を決定づけたのは、取手二高を率いて茨城県勢初となる全国制覇を果たした1984年夏、PL学園との決勝戦で見せた継投策だった。当時のPLには「KKコンビ」こと、2年生の清原和博と桑田真澄がいた。
プロでもやっていなかったワンポイントリリーフを駆使
4-3と取手二高の1点リードで迎えた9回裏。エースの石田文樹は、先頭打者に本塁打を許し同点とされると、動揺し、続く打者にデッドボールを与えてしまう。
ここで木内は、石田をライトに下げ、左横手投げの柏葉勝己をリリーフに送る。そして、PL学園が送りバントを失敗し、1死一塁とすると、4番清原和博を迎えたところで再び石田をマウンドに呼び寄せたのだ。
当時の主将で、のちに近鉄、阪神でプレーした吉田剛が思い起こす。
「今でいうワンポイントですよ。当時はプロでもそんなことやっていなかった。僕らもあのとき初めて見たんです。でも、石田がまたマウンドに戻ってきたとき、表情がガラリと変わってたんですよ」
石田は結局、清原を三振、5番・桑田は三塁ゴロに切って取り、木内の期待に見事こたえてみせた。
木内が「種明かし」をする。
「あんなに嬉しそうな顔をしてマウンドにあがったピッチャー、いなかったよ。ライトに戻って、冷静になったんだろうね。嬉しそうな顔をしてマウンドに上がったピッチャーは、みんないいピッチングをすんだよ」
絶不調だったピッチャーを抜擢する「ショック療法」
2003年夏、自身3度目の全国制覇を達成したときも、似たような「ショック療法」を行ない、下降気味の投手を上昇気流に乗せた。
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'03年夏、ダルビッシュを擁する東北を破り優勝。茨城県勢の優勝は全て木内のチームによるものだ
2回戦の智弁和歌山戦。エースの磯部洋輝の出来がいまいちだと判断するや否や、茨城大会では絶不調で1回3分の1しか登板機会を与えられなかった右横手投げの飯島秀明にスイッチ。すると、その飯島が全国屈指の強力打線を相手に見違えるような投球をし、5回をわずか1失点に抑え、6-3でチームを勝利に導いたのだ。
〈出た! 木内マジック〉
各紙とも、ここぞとばかりにそう書き立てた。
当時、捕手の大崎大二朗はこんなことを覚えている。
「甲子園出場が決まったあと、監督さんに呼ばれて『飯島を再生させないと甲子園では勝てないぞ。何とかしろ』って言われて。それを飯島に伝えたら、ものすごい喜んじゃって。干されたと思ってたんじゃないですか」
大崎と飯島は調子がよかったときの映像をチェックし、腕を下げアンダースロー気味にするなど技術的な修正を行なった。しかし木内が求めていたのは、むしろ「ものすごい喜んじゃって」という心の変化の方だった。
「嬉々としてマウンドに行ったからね。あんなに喜んでマウンドに行くやつを見たの、PLのときの石田以来だったな。だから、たいしたピッチャーじゃないのに、コーナーワークだけで抑えちゃうんだよ」
いったん圧力を加え、反発力を待つ。それが木内の常套手段だった
飯島は3回戦以降も毎試合登板し、そこからは1点も取られなかった。優勝を決めた瞬間、最後にマウンドにいたのも飯島だった。試合後、木内はそんな飯島を「神様、飯島様だな」と讃えた。
いったん圧力を加え、その反発力を待つ。それは木内の常套手段だった。
この夏の茨城大会でも、こんなシーンがあった。
準決勝、初回に1点を先制されて迎えた2回表。ノーアウト一塁の場面で、木内は6番・杉本智哉に強攻を命じた。たまたま記者席の後ろで観戦していた松林康徳にその意図を尋ねると、こう即答した。松林は、'03年夏のチームの主将で、現在は母校でコーチに就いている。
「さっき三塁の守備でミスしてますからね。こういうときは打たせるんですよ。自分で取り返せ! って」
木内の教え子に聞くと、必ず「監督さんはミスをしても、またチャンスをくれる」と話す。だが、それは、うがった見方をすれば、むしろ、木内はそんな選手をうまいこと利用しようとしているのだ。
練習グラウンドには木内監督のがなり声が鳴り響く
木内の「口撃」は容赦ない。たとえば以前、練習試合をしているときも、煙草を片手に、ひっきりなしに大きな声を張り上げていた。
捕手との呼吸が合わず、投手がプレートを外すと――。
「ダメ! 放らなくちゃ! 頭、使うことねーんだよ!」
投手が打ち込まれ、内野陣がマウンドに集まると――。
「集まる必要ねえよ! 力がねーんだよ! 必要ねえって! いたわる必要なんかねって言ってんだよ!」
練習中も基本的にはこの調子だ。夕方4時から夜7時まで、3時間の練習のうち優に1時間はマイクを片手にがなっている印象である。そのため常総学院の練習グラウンドは、いつ訪れてもスピーカーを通した木内の声がぐわんぐわん反響していたものだ。
「おい、サードランナー! おまえ、おい、おい! 言ったろ! サード側に転がったらツーランスクイズ、できるって言っただろ! なんでスタートしねんだよ。あんなバカ、高校生の中に入れるんじゃねーよ!」
選手は「監督とケンカして勝てば打てるし、負けたら打てない」
それに対し、選手もただ黙っているわけではない。
「うっせー、クソジジイ!」
「死ね、クソジジイ!」
そう監督を罵倒するのだ。木内は木内で、それを聞こえなかったかのようにやり過ごす。松林が説明する。
「たぶん、喜んでるんだと思いますよ。そういう気持ちになるのを待っているところがありますから。ある意味、ケンカですよ。監督とケンカして勝てば打てるし、負けたら打てない」
木内とは50年来の付き合いになる持丸修一は、そんな木内のことを次のように評する。持丸は竜ヶ崎一高や藤代など茨城県内の監督を歴任し、現在は専大松戸(千葉)の監督を務めている。木内が'03年夏に勇退し、'07年秋に復帰するまでの4年間、常総学院でも指揮を執っていた。
「普通の監督は、子どもに、だまされまい、だまされまいってやるでしょ。木内さんがすごいのは、だまされた振りができること。そうやって選手が気づかないうちに、手のひらの上で転がしてるんですよ。でなきゃ、代打なんて、普通、打たないんですよ」
■木内監督ほど『名将』という言葉が似合う人もいませんね。
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