ニョリース|`・ω・)ゝ”
さてさて、なんとか三日坊主をクリアした。
これは続けていけそうな感触だ。
今日は3/6(日付変わってるから7日だけど)ってことで
雛人形をしまうこととなった。オレは仕事だったので嫁と子供がしまったわけだが。
今年はけっこう早くに出してたので長く飾られていた。
ちゃんと7段の飾りにしてるのでけっこうスペースを使うんだけど、
子供らの友達とか遊びにくるとみんな喜んでくれるのがうれしいね。
雛様ーまた来年よろしく!
ところで、最近ニュースで大学生が3歳の女の子を殺して川に流すという事件があったやんか。
買い物中に一人でトイレに行ってる間にいなくなって、夜遅くまで探しまわってたっていうやつ。
あの事件、人事とは思えないね。両親の無念さを思ったら胸が痛む。
探しまわってる間の両親の気持ちはどうだったんだろう?
まさかね?だいじょうぶやんね?どっかで一人で泣いてるんちゃうの?早く見つけてあげやな!
って心配で心配でたまらなかっただろうね。
リュックに詰められた遺体を見つけたときの絶望感は想像を絶する辛さだったんだろうね。
3歳の子供が何もわからないまま殺される、最後の最後は両親の顔がきっと思い浮かんでたに違いない。
自分の子供がもしそうなったら、なんて考えられない。ちょっと想像しただけで涙が出てくる。
そして思うことがある。
あの大学生を法で裁くだけで許せるのか?
責任能力があったか?とかそんなことを裁判では争うんだろ?ありえへん!!
国際社会は死刑制度を批判する世の中だが、おれはそうは思わない。
殺した人数とかじゃない。遺族が許せるかどうかだ。
10年、20年したら刑務所から出てきて社会復帰するんだろ?
いあ、刑務所に入ってる間だってずっとそいつは罪の意識に苛まれ苦しむだけじゃないだろ?
罪の意識どころか、反省してるかどうかもわからへん。またやるかも?
どんな環境にいたって、生きている以上笑うことや、幸せを感じることもあるはずだ。
両親はその子の成長や幸せを感じることはもうないのに。
仮に死刑にしたらその大学生の親も同じ気持ちになる、なんていう奴もいるかもしれないが、
犯人と亡くなった子供には決定的な違いがある。
亡くなった子供には殺される理由なんてない。
だがその犯人には殺されるほど恨まれる理由ができた。
だから殺された子供と犯人の家族の感情は同じじゃないのだ。同じに見てはいけないのだ。
もちろん、死刑にしたからって子供が戻ってくるわけでもないし、
両親の悲しみが薄らぐわけでもない。死刑になったからってうれしくも悲しくもない、と思う。
でも犯人がこの世に普通に生きてるとしたら、それはやっぱりやるせないことだと思う。
あーいう子供が事件に巻き込まれるニュースを見ると、ほんとに辛くなる。
昔は子供の事件もそうじゃない事件も一つのニュースとして聞き流していたが
自分が子供を持ってからはあきらかに変わったなー。
虐待のニュースとか、誘拐事件だとか、事故とか、
そういうニュースからはつい目を背けてしまう。見たくない。
子供はね、大人が助けてやらないと生きていけない、弱い生き物なのだよ。
子供はね、一番近い存在の親を頼るしか生きていく方法がないのだよ。
親はね、その子供を守ってやるのが義務なのだよ。
義務だけど強制じゃなくて、それが普通のことなのだよ。
愛の定義があるとしたら、
たとえば子供や家族が病気して熱出して苦しんでるとするだろ?当然看病してあげるわけだけど、
大人が熱を出してる感覚と子供が感じる辛さの感覚はきっと違うだろ?
その子供の辛さを、ほんとの意味でその辛さをわかってあげられないことが辛い。
どうにもしてあげられない無力さに心を痛める。
そういう誰かの気持ちに思いを向けたり、
誰かの気持ちを理解しようとして心を痛める。
それが愛だと思う。
そして子供のために心を痛めても子供は親の気持ちなんてなかなかわかってくれないだろ?
でもそれに腹立てたり、子供に何か見返りを求めたりはしないだろ?
そういう無償の気持ちが愛だと思う。
お互いがお互いにそういう無償の愛を持てるならもっと柔らかい世の中になるんだろうね。
とりま、そんな事はしょせんは無理な話で、
せめてうちの二人の娘にはいつも楽しい気持ちとうれしい気持ちでいっぱいにして
毎日を過ごしてもらいたい。
んー、オレの考え方は偏っているのか?
間違っていない!ていう自信はある。
でも普遍的な考え方かどうかって聞かれると・・・わからん。
日常でこんなこと人に話さないしね。
このブログがもっと広く人に読まれているなら意見も聞けるんだけど・・・、
残念!ムリー。
今日はRSネタはもういいや。