e-クリニックもスタートして10年を過ぎ、元気にサバイバルを果たす人たちも多くなってきました。そんな方々と会ってお話しをする時に、共通した感情、なにかしら畏怖に似た念が生じる時がよくあります。それはまさに悟りを開いた徳の高いお坊さんと接した時に感じる気持ちと同じで、自然に頭が下がります。

 それはもちろん、決して糖尿病や高血圧の患者さんに対しては抱くことのなかった感情で、がんと言う病気はつくづく糖尿病や高血圧などとはまったく次元の異なる病気だと思い知らされます。

 


悟りを開き徳の高いお坊さんになるには、命がけの修行が必要であることは言うまでもありません。想像を絶する厳しい修行の最中、ギブアップする者はもちろん、中には本当に命を落とすものもいると聞きます。修羅場をくぐりぬけるとは、まさしくこのことを指すのかもしれません。

だからこそ、そんな修羅場をくぐりぬけた者にしか、見ることのできない景色、体得することのできない境地があるのでしょうし、それを悟りと呼ぶのかもしれません。 ただ悟りを開くと言うことは絶対善に限りなく近づくことに違いなく、だからこそ周りの者たちは、無条件に頭を下げ、畏怖の念を抱いてしまうのでしょう。

私自身も含め、この世の中には無明の民が多すぎます。それ故に悟りを開いた者が必要なのだと思います。つまり、悟りを開いた徳の高いお坊さんが私たちの周りにいてくれることが、せめてものこの世の慈悲なのだと痛感します。


私は高校生の頃、永平寺の修行僧にぶしつけな質問を投げかけてしまいました。

「なぜそこまで自分を追いで修業するのか?そんな修行になんの意味があるのか?その先に何があるのか?」

答えは単純明快でした。

「自分を追い込むのは、まさに意味を知るため!先を知るため!」と

その意味も、無明な私にもわかるよう、丁寧に噛み砕いて説明してくれました。

「私たちはあまりにも多くの物(我(が))を抱え過ぎている。自分を追い込まなければその我(が)を捨てることはできない、その我(が)を捨てることができなければ、修行に耐えることはできない。自分の我(が)をすべて捨てきったあと、ほんの僅かに残るものがある。それが自分自身の本当の意味(姿)であり、自分自身が本当に求めるものである」


ひょっとしたら、がんを治すということも、大胆不敵にも我を捨て修羅場をくぐりぬけることなのかもしれません。がん患者さんは、たとえ命を賭してでも、自分自身の意味を知りたい、自分自身の先を知りたい、そんな思いに駆り立てられた勇者なのかもしれません。

だからこそ、サバイバルを果たした暁には、無明の民には決して見えないものが見え、決して感得できない境地に達するのかもしれません。

と思えば思うほど、やはりサバイバーたちには自然に頭を垂れてしまいます。