今できることはなにか?

身体と心のチャンネルを常に合わせておくことだ。

いつになるかわからないが、演劇が再開できたときに、おそらく周りとの合わなさやぎこちなさをひたすら経験することになる。でもそんなのはどうでもいい。繰り返し練習していけばなるようになる。他人に合わせようとしなくていい。それ以前に自分の身体と心のチャンネルが合ってないとめちゃくちゃなことになるだろう。

自分が1人でも立てる状態、1人でも居れる状態、その臨戦態勢を0秒で立ち上げられること。今、できることはそれだと思う。だからぼくは毎日決まった運動をする。調子が良いときは問題ないが、たとえ調子が悪くても、気分が乗らなくても、一歩目に時間がかかったとしても、とにかく毎日やる。そうして汗を流す。言葉を吐く。声を出す。身体を動かす。確かなことは、どんな状態でスタートしても運動した後は気持ちが晴れていることだ。これを自分は大切にしたい。身体を動かすことは準備における大きなトピックだ。使わないと身体は錆びる。衰える。鈍る。そうでなくてもやがて加齢とともに衰えはくる。人前に立つことが難しい今やれる準備として、運動は自分にとって欠かせない。



時間の使い方がうまくないことや規則正しい生活を送れないことをあーだこーだ思い悩むのももうやめにしよう。そんなのはどうでもいい。腹が減ったらご飯をつくり食べ、眠くなったら寝ればいい。もともとグータラな人間なんだから必要以上に深刻に考える必要もない。楽しくねえときは楽しくねえなあ〜でいいじゃないか。単純に、簡単に、考えよう。

演劇の現場がないこと以外は、普段の一人暮らしとさほど変わらない。この点でぼくはおそらく多数の人と違う。演劇=仕事で、仕事がないときや仕事があっても普段やってることと今何も変わらない。劇場や映画館や銭湯、たまに美術館など、に行くことがなくなっただけだ。人と会うこともない。だが、これまでもそんなに頻繁に人と会ってたか?孤独を突き詰めると孤高になる。大切なのは演劇だ。ぼくは基本的に演劇を通して人と出会い人と関わってきた。演劇がなければ存在意義もないと言えるだろう。友だちもいない。けどしょうがないよ。作ろうとして作った友だちなんていずれ離れる。演劇がない今、誰からも連絡はないし、演劇がないんだから誰にも用がない、自然なことさ。


できることは自分の身体と心のチャンネルを常に合わせておくことだ。

こないだの即興やら試演会やらで、だんだん自分の求めるものがわかってきた。

今思えば、そのどちらもにおいて、自分の身体と心のチャンネルは見事にちぐはぐだった。なんだろうこの違和感?全然楽しめてないこの感じは一体?となったのも、要はチャンネルが合ってないということに尽きる。

じゃあどうすればいいのか?というと特効薬のようなものは多分なく、考えすぎても仕方ないのだが、とにかくあの時は楽しめなかった。それは紛れもなく自分の状態をコントロールできなかったからだ。

だけどその分反省材料をたくさん得た。

ぼくはHARDな芝居がしたいということ。

弱いとか小さい芝居に自分の興味は向かないということ。

強い自分を追究したいということ。

もともと弱くて小さいからなのだろう。

ちまちまへらへらやってる芝居に心が弾まない。これは、そういった芝居を認めないということではない。自分がしたい芝居じゃあないということだ。

なんというか、ライトな感じで楽しめないタイプの人間なのだと思う。

強大で爆発的で刺激的な瞬間だけを求めている。「強烈な今」だけを実践したい。

だから演劇なのだろうとはっきり思う。

ぼくの中に目指したい演劇がある限り、演劇はなくならず、ぼくはそれに向かうことができる。



マクベスのTomorrow Speechを声に出す。今日も、明日も、明後日も。

去年の上演ではマクベス以外の台詞として翻案されていたので、ぼくだけ口に出来なかったTomorrow Speech。味わい深い言葉たち。


『明日も、明日も、また明日も、とぼとぼと小刻みにその日その日の歩みを進め、歴史の記述の最後の一言にたどり着く。すべての昨日は、愚かな人間が土に還る死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、束の間の灯火。人生はたかが歩く影。白痴のしゃべる物語。たけり狂うわめき声ばかり。筋の通った意味などない。』

(Macbethby W.シェイクスピア 松岡和子訳)


他にもマクベスの台詞でこんな言葉がある。「言葉は冷たい息で行動の熱を冷ましてしまう」

とてもわかる。これはダンカン王殺害直前のシーンで、やるべきことは決まっているし決めているのにごちゃごちゃ御託並べてたら、やるべきこともやれねえべやというような意味合いで吐く言葉なのだが、しかし逆の見方もある。言葉で行動を激励することだってできる。完全にプツンと開き直るまで、言葉で自らを鼓舞し行動を推進させていく劇中のマクベスのように、現実の自分も言葉によって行動を奮い立たせていく。それを続けていく毎日だ。

俺はいつだって演劇ができる。