十歳の少女が虐待によって命をおとすといういたましい事件が(また)起きた。
朝日の報道によれば、父親はふだんは温厚で腰が低いいっぽうで学校関係者らにはきわめて高圧的な態度をとっていたという。
気になったのはこれをもって父親が“裏表のある”、“裏の顔をもつ”、“二重人格的な”人間であるかのように読めることだ。
つまり報道は父親があるしゅの異常人格者であることを前提しているようなのだ。
父親の心をむしばんでいた狂気をかれの“人格”に帰すことですべてを説明しようとしているととれるぶぶんがある。
こういうおおざっぱな議論は一般読者にはウケがいい。
しかし、ふだんはおとなしい人間が攻撃されると一転してアグレッシブになるのは動物としてごくしぜんなことだ。
わたしじしんけっこう似たタイプの人間なので(周囲の方々にとってはさぞつきあいにくいヤツだろうとおもう)、この報道には余計にひっかかった。
それいじょうにこういう短絡的な議論の危険性は、いっさいを父親個人の“人格”に還元して事件の本質を見えなくしてしまうことだ。
児童虐待というのはけっして“異常者”だけにかかわることがらではない。
わたしには子育ての経験がないが(よって以下の議論は基本的に思弁の域を出ない)、子育ての過程で子供に攻撃的な感情を向けることはどんな親にもあるらしい。
子供への攻撃性というのは人間に普遍的な情動である。
精神分析が普遍的なものとみなすエディプス・コンプレクスが潜在的な親殺しの欲望であるのだとすれば、子供への攻撃性はそれと対をなす潜在的な子供への殺意とみなすこともできるかもしれない(そのひとつの証拠は古来幾多の文学作品が子殺しというテーマをとりあげてきたことだ)。
虐待はこの欲望をコントロールできなくなったときにそれが顕在化したものである。それはいっしゅの精神病理であり、治療をひつようとするケースだ。
そもそも親が子供を愛さないというのは動物行動学的にみればごくありふれたことである。
それをもって子供をネグレクトあるいは虐待する親を異常者とみなすことはまちがっている。
とはいえ、子供への愛情の不在は子育てを放棄する理由にはならない。
子供を愛していようといまいと親は子育ての義務を免れない。
虐待者が責められるべきは子供を愛していないことではなく、子育てという義務を放棄したことによってである。
とはいえ、厄介なのは愛情と憎悪が表裏一体であることだ。
虐待が愛情の裏返しであるなどというつもりはないが、愛情とむすびついたなんらかの情動が逸脱して現れたものであることにはかわりはあるまい。
さらに厄介なのは被虐待児童もまたじぶんを虐待する親に愛情をもっていることだ。
親に愛情そのものではないとしても愛情ととむすびついた感情をもたない子供などかんがえられない。
被虐待児童はしばしば外部の人間にたいしてじぶんを虐待する親をかばう。
今回の事件で、親に書かされたメッセージを“鵜呑みにした”学校関係者の責任が問われているが、これはそんなに簡単な問題ではない。
メッセージが子供じしんの言葉であるか子供自身の気持ちに逆らって書かされたものであるかをそんなに単純に判断できない。
書かされたものといっぽう的に決めつけることは場合によっては子供への信頼を損ない、ひいては子供の人権を踏みにじる可能性がある。
虐待家庭における親と子供の関係を犯罪者(あるいは異常者)と犠牲者の関係という単純な図式に還元してしまうことはまちがっている。
そういう議論は子供の心のおそるべき複雑さを理解していない。子供の心など単純素朴なものだと無神経にも前提している(まるでじぶんが子供であったことがなかったかのように)。これは子供を人間扱いしていないにひとしい。こういう前提こそ真におそろしい。
虐待者の心の病から目を背けてはならない。虐待者を単なる“犯罪者”ときめつけ、その人権を踏みにじることもまちがっている。
日本の司法によってカルロス・ゴーンの人権が損なわれてはならないのと同じことだ。
臭いものに蓋をしたがる今回の事件の報道は昨今のポピュリズムの世界的潮流と軌を一にする。