カルロス・ゴーンの拘留が欧州で物議を醸しています。

 

 すこしまえにル・モンドのオピニオン欄に日本の世論は「逮捕イコール有罪判決」というのがもっぱらであるとの見出しがでていて、これを朝日新聞も引いていました(ただし、“オピニオン欄”の記事であることを断らずに、たんに「報じている」といった引き方をしていました)。

 

 なるほど言われてみれば、裁判という西洋に固有のもののかんがえかたに立脚したしくみは日本人には馴染みにくいのかもしれないとあらためておもわざるをえません。

 

 とはいえこれを、裁判という文化が日本では“未成熟”であると言い換える論点のすり替えに騙されてはなりません。(くだんの記事がそう述べているということではありません。)

 

 ましてや日本の司法は欠陥品であるなどと上から目線で言われる筋合いはありません。

 

 今回の一件が、中国のような独裁国家が恣意的に外国人を拘留することと同じレベルで扱われてはならないのです。

 

 とはいえ欧州(フランス?)ではじっさいにそのようなイメージがまかり通っています。

 

 たとえばタタミがまるで野蛮な拷問道具かなにかのように語られています。

 

 これは日本文化にたいする冒瀆いがいのなにものでもありません。

 

 20日、東京地裁が検察側の拘留延長を却下しました。東京地検特捜部の管轄としては「異例中の異例」(朝日)であるといいます。

 

 なんでも「国際世論」への「配慮」があったというもっぱらの報道です。

 

 しかも、「国際世論に配慮して早期釈放すれば、『日本の裁判所は検察と違う』と英雄視されるから」(ある検察幹部の言)という思惑がはたらいていたというのです。

 

 日本の司法はこういうモチベーションによって機能しているのです。

 

 「配慮」というのはもちろん迂言法であり、じつのところは擦り寄りであり、圧力への屈従にほかなりません。

 

 わが国はいまだ治外法権を許すパターナリズム的な風土から脱却していません。(基地問題はそのひとつの症候にすぎません。)

 

 日本の裁判所が西洋へのコンプレクスから解放されないうちは、日本にその名にあたいする司法、ひいては民主主義が根づくことはないのではないでしょうか。

 

 

 話題は変わりますが、しばらく前に日本の獣医学会が動物虐待を批判する声明を出したとかいう報道があったと記憶します。

 

 動物愛護の精神の普及は素晴らしいことだとおもいますが、じぶんの子供の体に触れただけでも犯罪者扱い、ひいては人非人あつかいされるいまの世の中であることをかんがえると、おそらくはたしょうともそうゆうデマゴギーにのっかって、動物に人間的な感情を勝手に投影しているところがあるのではないかと気になりました。

 

 わたしに子供はありませんが、いたら軽度の“体罰”をふるっていたのではないかとおもいます。

 

 “体罰”を暴力と同一視するのは現代人がみずからの情動をコントロールできなくなっている証拠です。

 

 親(大人)が親(大人)としての責任を果たせなくなっているのです。

 

 いまの親が昔の親にくらべて“未熟”だなどと言うつもりはもちろんありません(変わってしまったものがあるとすれば、それはむしろ社会そのもののあり方でしょう)。

 

 とはいえ子供を叩くべきところで叩くことができないことは親(大人)として責任能力の欠如であり、子供に触れることを「体罰」として一緒くたに禁ずることは、親(大人)としての責任放棄であることをすべての親(大人)は自覚すべきでしょう。

 

 能力の欠如じたいは責められるべきことではありません。ただし、その自覚の欠如は倫理的な科なのです。

 

 

 追記:拘留延長を却下された検察は、もともと「やらなくてもいいと思っていた」特別背任による再逮捕という挙に出た。その理由は「裁判所の仕打ち」(検察幹部)である(朝日)。