痛ましいテロが今度はニュージーランドでまた起きました。
なんでもテロリストは、イスラム教徒は出生率が高いので、白人社会への脅威になり得ると述べているそうです。
もちろんこんな考え方にはおよそ与できませんが、うんと通俗化されたエマニュエル・トッドというかんじで、一応の筋はとおっています。
かの国の首相はニュージーランドにかれのような思想を持つ者の居場所はないといったスピーチをしたようです。
とはいえ、移民にたいする漠然とした(あるいは明確な)不安は怒りと悲しみにくれているニュージーランド人たちのうちのすくなからぬ部分に共有されているはずです。
もちろん、わが国でも同じことです。わたしの住む首都のベッドタウンでも周囲で外国語が聞こえてくることが多くなって、一抹の不安な気持ちを抱いてしまうことがこのわたしにもあります。
外部の人間に対する警戒心というのは本能的なものであり、これは誰もがもちあわせているはずのものです。
くだんのテロリストはこの不安を病的に肥大化させてしまい、あのような行為を起こしたのです。
ですから、テロリストになり得る根はすべての人の心のなかに潜んでいます。
ですから、テロリストをじぶんとは別種の人間とかんがえてテロリストにたいして外部から警戒しようとする思考は実は転倒しています。
これは異人種にたいする不安感の裏返された現れにほかならず、根はテロリストを育んだ思考と同じです。
テロリストの居場所がじぶんの国にはないという首相のスピーチは、まさにイスラム教徒を追い出せという言い様をひっくり返したものにほかなりません。
メッセージは反対でも、発想は鏡に映したように同じなのです。
これは移民にたいする首相の無意識的な不安が現れたものでしょう。
というわけで、テロリストはわれわれふつうの市民の外部にいるのではありません。
われわれひとりひとりの心の奥底にテロリストが棲んでいるのです。
とはいえ、テロリストは内なる情動に負けてしまった人びとです。多くの市民はそうではありません。共存への意志によって不安に打ち勝ち、すばらしい多文化主義的な文化を育んできました。ここには決定的な違いがあります。
外国人にたいする不安があるからといって、それは外国人との共生を拒否する理由にはなり得ません。
じぶんじしんの不安と共生することはむずかしいことですが、それしか方法はないのです。
われわれの内なるゼノフォビアは根絶できないし(それは生物としての生存の条件でもあるでしょう)、しようとすべきでもありません。
しかし、最小限に抑えることはできるし、すくなくともその努力をすることはできます。またしなければならないのです。
重要なのは、テロリストと自分を別の人種とかんがえることではなく、じぶんのなかのテロリストの根をできるだけ断とうと日々トレーニングすることです。
フロイトは神経症にたいしてまさにこういうあるいみで楽天的な対処法を提言しています。
絶対的な治癒などありえないが、それにすこしでも近づくことはできるのです。
このほんのすこしの前進にこそ治癒の本質的な部分が宿っているのであり、それいがいの治癒のかたちなど実はあり得ません。
すべては度合いの差異、相対的な差異にすぎませんが、そこにこそ実は絶対的な価値に匹敵するものが宿っています。
これは精神分析がスピノザから受け継いだ最大の遺産です。
ところで、昨今の♯Me Too 運動で気になるのは、ハラスメントの犠牲になってきた女性たちにたいし、「怒ってもいいんだよ」的なアドバイスをする無責任なマスコミや評論家たちです。
“内なる情動を開放しろ”と説くこういう乱暴な議論は、それこそテロリストの思考につながりかねません。
問題は個々のハラスメントの事実をきちんと裁くことです。女性(などの弱者)をいい気持ちにさせることではありません。
正義を貫くことと自己満足を得ることとは別物です。
昨今のポピュリズム的な社会はまさに内なる情動を全開にしたいという人間の欲求によって動いています。
民衆はじぶんの情動を開放して気持ちよくなることが民主主義の恩恵であると思い込んでいます(フランスの惨状を見てください)。
あげく政治家にしろ教育者にしろ指導的な地位にあるひとたちは口当たりのいいことばかり言っています。
結局、そうしないと金にならないからでしょう。というわけで、資本主義が諸悪の根源であるというあたりまえの議論に戻ってきます。
とはいえ、資本主義とは別のシステムをすぐに構築することはできなません。資本主義の枠内で、拝金主義的でない部分をすこしでもおおく創り出している努力を日々していくほかないのです。
トランプが退陣する前に、トランプ現象のいみをいま一度よくかんがえることがひつようです。
前にも引きましたが、トランプは「原因」ではなく、ひとつの「症候」であるとバラク・オバマが言っています。