米朝首脳会談という茶番はいうまでもなくG7でのケツまくりとセットであり、さらにプーチンお膝元でのワールドカップとも連動している。これぞトランプ流演出(「ディール」)の真骨頂だ。
いつも横目で眺めているだけの週刊誌の広告だが、このところ、「この製品を食べてはいけない」といった文字がデカデカと踊っているのがいやでも目に入ってくる。
こういう脅迫まがいのデマゴギー(昨今話題の「ハラスメント」もその一つだ)が商売になるのは、いまの日本人(だけではないが)のなかに強迫神経症的な純粋主義が根を張っている証拠である。(メディアがそれを醸成したなどとは言うまい。メディアの力を過信すべからず。)
つまり国民全体が病気なのだ。
内なる排外主義を正当化するために、われわれは不安を注入されたがっている。
そんなわけで週刊誌がよく売れる。
かくてすこしでも違和感のあるものは「害」「毒」として排除されるこのうえなく不健康な「健康」信仰が国教のごとくになる。
「食」の領域はこうした排外主義のたんなるひとつの現れではない。むしろ、こうした排外主義はすぐれて「食」というメタファーに依存している。
朝日新聞夕刊に連載中のコラム「ハラールをたどって」をおもしろく読んでいる。
それによれば、ハラール認証制度は、信頼性を武器にしてハラール・ビジネスにおいてうまく立ち回ろうとしたマレーシアの商魂の生み出したものである。いまやイスラム圏への輸出で食っている企業にとっても認証は不可欠であるらしい。
認証制度とは安心をうたった排除の論理である。それに照らせば、たとえば、豚由来成分をふくむショートニングを使ったパンはアウト。スープの素に豚エキスが入っている野菜スープもアウト。豚肉を運んだことのあるトラックで輸送された食品もだめ。豚毛の清掃ブラシを使った場合も然り。
「~も製造する工場で製造されています」といった、われわれにもおなじみのコピーがすぐさま想起される。そもそもそれこそ「アレルギー」などというアバウトなカテゴリーは、医学的に原因を究明できない症状をとりあえず一括りにしたデマゴギーにすぎない。
各種アレルギーに苦しんでおられる方々、アレルギーのお子さんをお持ちの方々のご苦労は重々お察しします。
問題はこのデマゴギーにつけ込む商魂あるいは無自覚ゆえにデマゴギーに乗せられて恥じないわれわれの心のあり方だ。
閑話休題。
コラムによれば、イスラムとはもともときわめて自由な宗教であるという。
イスラムにおいては「個人が神とちょくせつ繋がっている。間には誰も入らない。何を食べるか最後に決めるのは自分自身」。
こう語るのはかつての有名「外タレ」ロイ・ジェームズの弟氏。ロイ・ジェームズがタタールのムスリムだったなんてはじめて知った。
驚いたことに最近、ほんらいハラール(原義は「許されたもの」)であるはずの水にも認証制度が導入されたという。なんでも浄化フィルターにケチがついたらしい。
イスラム法の専門家によれば、「何がハラールかハラールでないかを決めるのは神のみ。人間が勝手に判断してもともとハラールだった野菜や果物にまで認証をあたえる行為そのものがイスラムに反している。じつはイスラムでは禁じられていることはとてもすくなく、世界は基本的にハラール」。
ビジネスの論理にもとづく認証制度が信仰そのものを歪めている。認証制度はイスラム教徒が神から委ねられた自由をビジネスの論理に売り渡す瀆神的な所業だともいえるだろう。
くだんの「ハラール水」を、ムスリムにはハラールいがいのものをあたえてはいけないときめこんだ企業がムスリムの被雇用者のためにを大量購入しているという。
あるムスリムの母親は、ムスリムの子に食べさせるものがないという理由で子供が級友の誕生会に呼ばれなくなるといった事態を危惧している。認証制度がムスリム自身の首を絞め、ムスリムの排除を加速している。
もともと、おなじムスリムであっても、ハラールにたいする厳格さは個人あるいは地方によってかなり差があるらしい。(もちろん、こうした事実は“同化”へのムスリムの側の努力を免除しないと思われる。)
一部の厳格なハラール観がイスラム全般の厳格主義(狂信主義)だと誤解され、イスラム嫌悪を助長している現実がある。
問題はムスリム個人の自覚いじょうに、ムスリムにたいするわれわれの認識であるということだ。
「食」をともにすることはコミュニティのもっとも基本的な条件だ(人類学的に言えば、食をともにすることは相手を食さないことと同義であるから)。「ハラール」しか食せないという思い込みから、ムスリムをコミュニティから排除しようとする動きが進行しているのは由々しきことだ。