がちがちのカトリック国アイスランドで中絶合法化にゴーサインが出た。ことほどさようにカトリックの旗色は悪くなるいっぽうである。
フランスでは去る4月9日、エマニュエル・マクロンがカトリックの司教らをまえに発したメッセージが論争を巻き起こした。
マクロンいわく、「われわれは教会と国家の絆が傷んでいる(abîmer)という遺憾な感情を共有しています。あなたがたにとってもわたしにとっても、この絆を修復することが重要です」。
プロテスタントの哲学者ポール・リクールに私淑する大統領とはいえ、もともとはイエズス会の学校で学んだど真ん中のカトリック。
ライシテはスピリチュアルなもの(le sprituel)や社会を培ってきた神聖な部分(la part sacrée)を否定するものではないとして、弱者の救済といったカトリック的な人道主義を普遍化しているとも読める内容。
そのうえでじぶんは「共和主義の信条に神の超越性をとって替える国家宗教」の創設者たろうともその推進者たろうともしていないと釘を刺している。
一応「左翼」でありながらがちがちの政教分離派の元首相マニュエル・ヴァルスは1905年の政教分離法遵守の立場からこれを非難するツイートを出した。いわく、「ライシテこそフランスであり、その根拠はただひとつ、教会と国家の分離をさだめた1905年の法律である。法律というものは守らなければならない」。
ヴァルスの戦闘的なライシテ観を反イスラム主義に棹差すものと危険視する向きもある。ブノワ・アモンはその一人だ。ヴァルスじしんは敵はイスラムそのものではなく「政治的イスラム」だと防御線を張ってはいるが。
アモンによれば、ライシテの問題は社会問題と不可分である。新自由主義が福祉国家を弱体化させ、共同体主義を助長しているということらしい。一方、今回のマクロン談話も反イスラム主義と方向性を同じくしているともとれる。
極左の「不屈のフランス」代表のジャン=リュック・メランションは、信教の自由の砦としてのライシテを奉ずるという、ヴァルスとは違う立場からやはりマクロン談話を糾弾している。「[教会にすり寄った]サルコジでさえこんなことは言わなかった。[教会と国家の]絆は傷んでいるのではなく断たれたのだ。これこそ1905年の法律の本質だ。共和国大統領はスピリチュアルな権威ではない。これは致命的な職分の混同だ」として談話を「卒業試験の答案」なみと貶める。
談話の背景にはオランド内閣で合法化された同性婚、および生殖医療(とくにPME)や安楽死の合法化の潮流にたいするカトリックの敵意があり、去る大統領選で長年の慣例を破って極右への投票が許容されたカトリック票を奪回することを睨んでいるようだ。そのかぎりで談話の内容はどこまでも「政治的」なものである。
前号で扱った『ライシテから読む現代フランス』(岩波新書)の併読をおすすめしたい。