その判定において神聖であるべきレフェリーがみずからの責任を機械に押し付けて恥じないこれぞホントの記念すべき第一回“シンギュラリティー”阿呆ワールドカップ。カメラにケツむけて銀行のATMのごときケチなモニターのぞきこみ“神託”うかがうレフェリーは純粋に被写体としてまったく見苦しい。受信料返せ。
そんななか、西野は真の責任者とは、指導者とはどうあるべきかを身を以て示した。日本は誇るべき「フェアプレー」精神ゆえに立派に勝利した。代表もわれわれも手放しではしゃいでしかるべきだった。
西野はイレブンの「実力」を見限った。第二次世界大戦で日本の指導者がけっしてできなかった英断である。「マイアミの奇跡」が奇跡などではなかったことがいまこそはっきりしたのだ。結果として、相手のポーランドにも花を持たせ、なおかつ日本の売りである「フェアプレー」を最後の一手に残したという遠山の金さんもびっくりの名裁き(?)であり大演出である。
わけ知り顔で西野采配を批判した一部の「サポーター」たちがいると言う。その時点でかれらはサポーターではない。「非国民」という人種がもし存在するのだとしたら、この人たちこそそのカテゴリーに入れるべきだろう。
西野の「他力」という弁解を本気にとる必要はない。それが(バカ向けの)リップサービスにすぎないことはバカでもわかる(いや、わからんか?)。ここまで着実に勝ち点を積み上げてきたその詰めの一手でたまたま「運命」が微笑んだとしても、それで前二戦での「自力」が水泡に帰してしまうとでもいうのだろうか。スポーツは100パーセント「自力」「実力」でなければならないなどという“信仰”(とゆうか脅迫?)は間違いなく今の強迫神経症的(そしてフロイトによればすなわち宗教的)社会の産物である。
「運」や「他力」に罪悪感を感じる事実そのものがおのれの宗教性の隠蔽にほかならない。スポーツの女神の歓ばしい贈り物を傲慢にも拒み、「たかがフットボール」という鷹揚さと高貴な遊び心の余地を排除したところにはファシズムしか残らない。
これはプロ中のプロであるレフェリーらの「主観」が介入してはならないというファシズム(素人陪審員の評決じゃあるまいに)と明らかに連動している。
朝日に「スポーツ倫理学」の専門家とかいう早大教授が「勝ち上がることは大事なことだが、勝つためなら何をしてもいいというような誤ったメッセージにならないよう、プロ選手も意識するべきだ」という談話を寄せていて、おもわず目を疑った。この御仁によれば、「最後まで正々堂々と戦う姿勢」が「スポーツ倫理」なるものの内実であるらしい。そもそもこんな田舎の中学校の部活動みたいな精神主義的な標語が先の世界大戦での敗北と多大な無駄な犠牲を招いたのではなかったのか?
見て退屈なゲーム運びをしたことにたいして西野に責任はまったくない(そもそもストレスは溜まったもののじゅうぶんにスリリングな十分間ではなかったか?スポーツニュースの子供じみたゴールシーン集が示すような型にはまった「面白さ」にこだわるべきではない)。そんな御託を口にしているのはセネガルの回し者か、フットボールをディズニーランドのスペクタクルかなんぞと勘違いした暇人どもかのどちらかである。二十年前に瑠偉ラモスが述べたごとく、W杯は戦争である。戦争に面白さや美しさを求めるバカがどこにいるのか。戦争に必要なのは唯一リアリズムだけである。現実から目を背けぬそうしたリアリズムこそが勝利をもたらし、また人命を救うことができるのだ。
新幹線事件の小島は「社会を恨んでいる」と述べた。小島が『罪と罰』の読者であった(らしい)ことをもってかれの行為をソシオパス的言動と曖昧に一般化すべきではないだろう。小島が恨む社会とは端的に安倍政権下の日本社会のことではないのだろうか。