麻原彰晃以下七名の死刑執行は公文書の隠滅にひとしい国家的犯罪である。このことははっきりしている。
とはいえ死刑存続を支持する圧倒的な数の国民に配慮してか、もしくは本人が存続論者なのかしらないが、コメントをもとめられた諸家の歯切れはいちじるしく悪かった。
冤罪の可能性と費用の高さゆえにわたしは死刑は理に合わないと思いこんでいた。
あまりにもあたりまえのことにおもえたので、死刑についてはこれまでとんと不勉強であった。
反省をこめて気になっていた萱野稔人の『死刑 その哲学的考察』をこのほどひもといてみた。
萱野によれば、死刑の是非は道徳的な観点からは判断できない。
死刑存続論者も廃止論者も道徳の存在を前提しているかぎりで道徳は「普遍的」である。しかし、個々の道徳は相対的であると、カントに依拠して萱野はいう。
道徳論によって死刑の是非は判断できないが、「説得」することは可能であると、日常言語学派を引きつつ萱野は認めている。
しかし萱野はそうした議論の方向を選ばない。
道徳論的に判断できない以上、死刑の是非は「政治哲学的」な判断によるしかない。
それは以下のようなものである。
死刑は公権力による合法化された暴力である。
そしてこの暴力を合法化する主体は公権力じたいである。
死刑という暴力を公権力が独占しなければ、被害者の遺族が復讐のために暴力を行使する自由を認めることになる。
公権力が普遍的な権威であることを国民に示すために公権力は死刑という暴力の行使をその手段とする。
公権力が維持されるためには死刑が不可欠である。
それゆえ裁判所は何が何でも容疑者を起訴しようとする。冤罪と再審の困難は構造的必然である。
これを以って萱野は死刑廃止の論拠とする。
冤罪の可能性を以って死刑を廃止すべきであるという主張は目新しいものではないとおもわれる。とはいえ萱野によればそれは死刑是非論において蔑ろにされているという。
萱野は人権という論点つまり道徳論的な観点から冤罪を断罪する立場に与したくないのであろう。
道徳論は括弧に入れ、「哲学的」な観点からひとつの明確な結論を導き出すというのが本書の野心でもある。
萱野は「死刑=極刑」という通念を問いに付す。
萱野によれば実際には終身刑こそがもっとも酷い刑罰である。それゆえ萱野は死刑に替えて終身刑の導入を提言する。
日本に終身刑はないが、仮釈放が認められにくくなっていることによって、無期懲役が事実上、終身刑化している。
終身刑を逃れるために死刑を望む者や終身刑を指弾するために死刑肯定論を唱える者もある。
死刑を望む者にたいして死刑は刑罰としての効果をもたない。終身刑を逃れるためにじぶんが死刑になるようにとりはからうことは死刑の「悪用」である。
こうした「悪用」の可能性によっても死刑は廃止されねばならない。
終身刑は死に逃げ道を見出そうとする凶悪犯に死への逃避を許さないことであると萱野の弁舌は勇ましい。
以上のような死刑の価値のいわば相対化(カントと論争したベッカリーアが援用される)はひとつの思考実験として無視しえない説得力をもつ。
しかし、「哲学的」に説得的な結論を導き出すために道徳的な観点を確信犯的にではあれ保留するという本書の“カント的”な立場に必ずしも説得力はない。
萱野は「赦し得ないものを赦す」というデリダの「究極の寛容」論を、道徳的な観点からの解決を信じているからダメなのだとするのではなく、そんなものはじぶんを高尚にみせるための体のいい修辞にすぎないとヒステリックにおとしめる。
ガチガチの構造主義者である萱野にはもともとヒューマニズム的な発想へのアレルギーがあるようだ。
萱野の執筆の原動力になっているのは凶悪犯への怒りである。かつて教え子を不条理な巻き添え殺人で失ったという経験が本書のなかでさりげなく伝えられる。われわれは萱野の熱い思いにじゅうぶんに共感する。
さらに死刑存続派の「遺族らの感情がおさまらない」という理屈にたいしては、それがじつはわれわれ一人ひとりが内に抱く処罰感情の投影にすぎないと指摘する冷静さも忘れていない。
しかしそのことと本書が一貫して処罰者の論理によって貫かれていること(「死へ逃げ込むことを許さない」などと凄んでみせていることひとつとっても)は別のことがらである。
「権力=悪」という前提は不毛だとして、萱野はそれなりにソフィスティケートされてはいるが古色ゆかしい国家=暴力装置論に引きこもる。
そもそも、死刑によって遺族の感情がはたして「おさまる」のかという問いかけは本書にはない。
カントの死刑擁護論への誤解を解こうとすることに急なあまり、カントの前提する応報論をそのまま鵜呑みにしている(それは「進化生物学などの研究によって実証済み」と澄ましている)。
ハムラビ法典において「目には目は」は、受けた被害以上の復讐をしてはならないという歯止めとしていわれている。カントが守ろうとしたのはあくまで死刑における応報という原理であって、死刑そのものではないという。
しかし人の命を等価であるとし、他人の命を奪った罪をじぶんの命を差し出すことで償えるとすることの是非について本書に説得的な記述はない。
「罪を憎んで人を憎まず」的な発想は萱野のおよそお気に召すところではない。
寛容は容赦のない自己否定をともなう厳格さ(なんなら残酷さと言ってもよい)をその本質とする。
しかし「赦し得ないものを赦す」という定言命令を萱野は甘っちょろい憐憫主義ていどにしか理解していないようだ。
ヨーロッパ人がみずからの血と引き換えに掴み取ってきた人権や寛容というヨーロッパ哲学の根本思想についての著者の無理解をうたがわざるを得ない。
処罰感情というカントのいう「パトローギッシュなもの」をどこに振り向けるのがベストかという問いの立て方はすぐれていると思うが、それへの最終的な答えを前提しているらしき点において本書はフロイト以前といわざるをえない。
なんだかんだいっても本書の結論そのものにはわたしも賛成であるし、本書が広い議論に開かれた刺激的な良書であることにはかわりがない。