タイで救出された感動のお騒がせキッズらの命と引き換えというわけでもなかろうが(?)、同じ数のオウム死刑囚が間を措かずに刑に処された。
平成の終わらぬうちに、オリンピック前に、ケリをつけてしまいたい、厄介払いしてしまいたいとの法務省のくだらぬ思惑によって、再審請求中の執行はないという慣例を涼しい顔で破っての大量執行。裁判を受ける権利という基本的人権が平然と踏みにじられている。
テロにたいしてはテロを以ってすべしということか。
朝日新聞によれば、「ある法務省幹部は言い切った。『もう再審請求中だからといって、執行を躊躇する必要はない』」。コ、コワイ……
再審の可能性がほとんどないことを盾にとった暴言だ。こんかいの大量執行をきっかけに再審への道がますます閉ざされることはまちがいない。
同じく昨日付の朝日がある弁護士の不可解なコメントをのせていた。
再審請求を拒否していた端本悟にたいし、法学部時代の同級生であるこの弁護士は再審請求をするべく説得しつづけたが、聞き入れられなかった。
弁護士いわく、「潔く生きたい、という意思を貫いたのではないか」。
意味不明な述懐である。武道家であった端本の「武士道」精神をたたえたつもりでもあるのだろうか。
それをいうなら日本語の使い方からしてもとうぜん「潔く死にたい」とすべきところである。
とはいえ死刑囚の死の欲望を美化するべきではない。萱野稔人の『死刑 その哲学的考察』がおしえるように、死刑囚のなかには死という安易な逃げ道に逃げ込もうとする臆病者が一定の割合で存在する。
その理由は終身刑がこわいからである。そして“死んでお詫びする”といったいかにも「日本的な」理屈がその怯懦の隠れ蓑になる。それゆえに萱野は「死刑=日本文化」論を退ける。
ちなみにオウム死刑囚らの執行が済んだ現時点で、わが国では111名の死刑囚中、再審請求中の者は88名であるという。
萱野のように刑罰としての効果を(終身刑によって)味わわせるために死刑を禁じるべきだとする見解は措くとしても、ナチスに匹敵するテロリストであるかれらには「証言」への国民的、いな人類的責任が死ぬまでまといつく(アレフの道場の壁にいまなお麻原彰晃の写真がべたべたと貼られているようすはネオナチを想起させてあまりある)。
かれらに死をあたえてやることはこの証言の責任という苦役を確たる理由もなしに免除することである。こんかいの大量執行は平成の幕引きと五輪に浮かれたバブリーな安倍政権による恩赦の大盤振る舞いだ。
こんかいの大量執行が、公文書毀棄・改竄における安倍政権の根本的な歴史修正主義的思想と同根であることは明白すぎるほど明白である。