以下、あたりまえのことをあえて書く。

 

 

 猖獗をきわめる各種ハラスメント告発の嵐は、いわゆる「言ったもん勝ち」の世界である。当事者がハラスメントと感じればそれがハラスメントである、というのがハラスメントの定義であるというのだから。

 

 以前この場で述べたとおり、こういう考え方はファシズムの論理につながりかねない。

 

 あげく男性が女性を口説くことや、規律を以ってする厳格な指導一般が悪であるかのような通念がまかりとおる。

 

 先日の体操選手(だれに利用されていたのかしらないが)の醜態、あれはいったい何だったのか?

 

 ハリルホジッチの厳格主義にすねて駄々をこねた長谷部誠(凡庸な上司の権化)以下の代表も代表なら、それを真に受けて不当にハリルを更迭した親バカな協会も協会である。

 

 映画界に目をむければ、アッシア・アルジェント問題を日本のメディアは黙殺した。昨今のハラスメントの論理にしたがうなら、これも被害者の男性がたとえ誰に利用されていたにしろ、有名女優=監督によるパワセクハラの事実は断じて否定されてはならないということになるのではないか。

 

 くだんの「杉田論文」へのバッシングもあきらかに度を越している。

 

 もちろん嫌悪すべきクソ論文ではあるが、版元の新潮社内からのたしょうともデマゴギー的な告発をメディアがその気になって褒めるというこれまた醜悪な報道にはげんなりさせられた。(朝日、20日朝刊)

 

 さらに・・・夕刊に載った記事にはもじどおり開いた口がふさがらなかった。

 

 林真理子作詞の高岡市市歌に「市民団体」がケチをつけたという記事だ。

 

 山車を引く男らの勇姿を家族らが誇りに満ちた目で眺めているといった内容が問題であるという。

 

 「男たちのりりしさ あなたの父も兄もいる」というくだりがあるいっぽうで、「女性についての言及がない」ことが女性差別だというのである。

 

 日本語がふつうに読めるひとなら、「あなた」に女性がふくまれていることは一目瞭然である。

 

 諸肌脱いで山車を引く女らの描写でも入れろというのだろうか。

 

 それこそセクハラだろう。

 

 「男」という言葉をつかうならかならず「女」にも言及しなければならないとでもいうかのような杓子定規なジェンダーの捉え方には危険な思想を感じる。

 

 「女性についての言及がない」というのであれば、「ゲイ」「レズビアン」「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」のひとたちについての言及はなくてもいいということなのか?

 

 なんと貧しく反動的で政治的に正しくないジェンダー観なのだろう。

 

 先日の全米オープンでのセリーナ・ウィリアムスの振る舞いを風刺した漫画にたいするハリー・ポッターの著者の上から目線のイチャモンにもあきれたが、それに輪をかけたチンピラまがいの因縁である。

 

 ハラスメントや差別はもちろん悪だ。法改正などへの沈着で粘り強い努力がひつようである。

 

 とはいえ、それを口実にして人の口に轡をはめようとすることだけにサディスティックな快楽をみいだしている者らがいることが問題だ。

 

 臭いものに蓋をすることは容易だが、そのために表現の自由という基本的人権を侵すことはぜったいに許されない。

 

 くだんのシャルリ事件の際に長谷部恭男が朝日紙上で述べたごとく、「誰の気にも障らない表現の自由なら北朝鮮にもある」。

 

 自由でありたいなら、じぶんとは根本的に考えの異なる他者の自由をもみとめなければならない。

 

 もちろん、そういう考えを是認せよということではない。

 

 他者との共存の否定はポピュリズムの本質である。

 

 昨今のハラスメントブームが世界を席巻するポピュリズムの嵐と通底していることは火を見るよりもあきらかだ。

 

 法治国家を脅かす危険な安倍政権をおもて向きは批判している当のそのメディアが、ハラスメントデマゴギーに乗っかって法治主義の破壊に手を貸しているのだから始末がわるい。

 

 法治主義はお題目であってはならない。からだをはり、血を流してでも守るべき厳格な掟である。