休日の朝、ふだんはみない天声人語にふと目がいき、ガソリンスタンド経営がかつての若者の憧れの職業であったとの一節に蒙をひらかれる思いがした。
車に関心がなく、ガソリンスタンドにまったく縁がない小生などは、油臭いプロレタリアートの典型みたいに勝手にイメージしていたところがあった。(関係者の方々、ごめんなさい)
昨日付の同紙に有働女史の「置屋の女将」発言が物議をかもしているとの記事があり、「ジェンダー論」の大学准教授が、かつて置屋は人身売買の巣窟であり、女性の人権蹂躙の温床であったから、発言はけしからんとゆう、いかにもな(言わせられた感のつよい)コメントをする一方で、芸者はいまや憧れの職業であり、女将は颯爽としたかっこいい上司みたいなイメージであるとの趣旨のコメントを辛酸某女史が寄せていた。
関係者の方々からしたら(あるいはまっとうな常識の持ち主の目からは)、「ジェンダー論」のセンセイの上から目線の発言は立派な職業差別と受け取られてもしかたがあるまい。
ことほどさようにいわゆる人権派のひとびとはときとしておのれの言動による人権蹂躙にだれよりも鈍感である。
アフリカにおける性暴力と戦う二名がノーベル平和賞を受けるいっぽうで、カヴァノーが無事に最高裁判事に収まりそうな勢い。
いまにはじまったことではないが、ハラスメントの「政治利用」がばあいによっては被害者の尊厳を修復不可能なまでに損なうことは片時も忘れられてはなるまい。
さて、各役所における障害者雇用数水増し問題が暴露されていらい、障害者の労働にスポットがあたることがおおくなったのはよいことだ。
とはいえ、障害者をなにがなんでも就労させねばならないという強迫観念にも似た論調は、およそ労働そのものがAIに全面的に委ねられようとしている時代の流れにあるいみで逆行するものではないか。いまや人間のアイデンティティ(生きがい)を「労働」に見出すことは決定的に時代遅れだ。
なおいけないのは、就労していない障害者がいわば社会的に“非生産的”な分子であるかのように前提されていることだ。
いうまでもなく、こうした前提は非異性愛者の非「生産性」を口にする優生学的な発想と容易に通底し得る。
障害者の雇用が経済効率と非両立的ではないどころか、経済効率を高めさえするという説はいまやひとのよく知るところとなっている。
とはいえやはり、それが非就労の障害者を差別する理由になってはならない。
バリアフリーの社会はすばらしい。とはいえ、バリアフリーの観念が自由ではなく強制を生み出すように利用されることがあってはならない。
だれもが“非生産的”になっていくこれからの社会、障害者にたいする上から目線の政策はもはや通用しない。