瀧本先生のラジオは毎週月曜日の23時からと、毎週土曜日朝8時から再放送されます。

下差しこちらのURLからラヂオきしわだのラジオが視聴できます。

http://www.radiokishiwada.jp/simul/

 

 

-------------------

 

 

今日は死ぬという事の続きからです。

 

 

 

先生:「死ぬっていう事に対しての学びは仏教はそこには意味がなくて、死ぬという事自体が生きている事との境界線がないから悲しむという事がないけれども、お釈迦様が人が亡くなったのをみて涙を流さなかったわけではない。『よくやってくれたね』って弟子が何かで死んだ時には亡骸を見ながら涙を流されるという事がいっぱいあった。

 

ただ、インドかネパールだったか忘れてしまったけれど、ある民族ですごくビックリする風習がある民族があって、自分の子供が亡くなって悲しんでいた時に、お釈迦様に子供の頭を撫でてもらってから埋葬しますっていってから、ハゲタカが食べ終わるのを見るの。」

 

 

 

全員:「ビックリマークビックリマークビックリマーク

 

 

 

先生:「自分の子供をハゲタカが食べるの。普通できないよね?見るもおぞましい光景を見なきゃいけない事になる。けれども、全くの物として考えるのね。命が抜けたら。その子の中の物は全てそこにはいなくて、たまたま乗り捨てた車みたいなもので車もそうだけどスクラップするよね?スクラップするのと一緒で、スクラップされた鉄はまた違う鉄になるように、亡くなった子供達を丘の上に置いてそれをハゲタカが突いて全部が無くなるのをぼーっと見て”あの子の体はハゲタカが食べて、あのハゲタカは大空に飛んで行って色んな所で色んな経験をして、もしクマに捕まって食べられたら、あの子の体はクマの一部になる”っていう事を語り合いながら死体がなくなるのを見届けるというのが民族の儀式にあるの。ちょっと直視はできないけどわかるよね。」

 

 

 

れい子さん:「死は当たり前のことなので仏教には欠かせないお話ですよね?」

 

 

 

先生:「そうなの。お坊さんとして私がいる中で一番多かった質問は死についての質問が一番くる。ところが残念な事に死ぬという事に関してそれほど教えがないわけ。エピソードはいっぱいあるけど、教えなければいけないような事ではないわけよ。死ぬという事が当たり前すぎて。

 

死後の話という事は本当にお釈迦様は語っていないの。仏教以外の宗教や学問、スピリチュアルは死後をテーマにしていっぱい話をされているけど仏教ではそれは最も愚かであると位置付けているの。死んだ後の話のことはほとんどないし、『死ぬ事が怖いですえーん』って言ってくる信者に対しても『だったら考えなければいいじゃん』って。『今生きているんだから今を考えればいいじゃん』って仰っていたの。なぜ今を見ないで、死ぬのが怖いと言いながら見なければいけないのか。それは、

 

 

 

 

今なすべき事をしてないからそこを見る事ができて

やるべき事をやっている人間は死ぬという事を見る事はできない

だからどうして今を見ないのか

 

 

と仰っていたの。」

 

 

 

全員:「なるほど!!

 

 

 

先生:「だから仏教って死に対しての色んなエピソードがあるんだけれども教えがそんなになく、自殺する信者に対して諭す話があるわけでもない。でも彼はやるべき事をやりきった。それはお釈迦様も認めていた。別のお釈迦様の弟子で、寝たきりになって修行もできない。修行すらできなくて、そこにあるリンゴを1つ食べる事くらいしかないんだったら、そのリンゴを食べるのをやめて亡くなられた方もいらっしゃるの。断食をして栄養失調で亡くなった弟子もいる。」

 

 

 

全員:「びっくりびっくりびっくり

 

 

 

先生:「食べるという行為が、私が生き延びた所でもうすでに何もできない。修行もできない。腰も痛くて坐禅も組めない。寝ているしかない。その寝ている自分の体力をつけるために何かを食べるということは、こんな失礼な殺生はない。リンゴも生き物だからね。何かの殺生をして自分が食べるということは、自分がその命を引き継いで自分が成せる事をするために命を預かっているのに、活動ができなくなったのに魚を食べるとか、木に実っている果実をもぎってその命を頂いて、自分の命を繋ぐという事が修行ができない上に罪を作る事になる。

 

『ここまで自分は自分の人格を高めてきた。聖者になろうと頑張ってきたけれども最後の最後になって罪を作って命を閉じたくありません』って言ったの。『どうかお釈迦様、私は断食の修行に入ります。それが私ができる修行です。食べないという修行で罪を犯さずに命を返上します』とお釈迦様に仰って、お釈迦様は何も言わずにただ頷いただけ。そしてその方は餓死したわけ。でもすばらしいわよね。」

 

 

 

今週のラジオ内容はこれで終わりですバイバイ

 

 

 

やっぱり私も活動ができなくなったら、チューブに繋がれて生きながらえるよりも食べるのをやめて餓死したいなぁと子供の頃から思っていたのですが、先生のお話だと、お釈迦様のお弟子さんのようにやる事やってからのようなので、どう死ぬかという死に方よりもどう生きるかの方を考えようと思います。

 

果たして断食の修行できるだろうか。。。昨日大阪の庵で食事会があるとのことで参加させていただきました。各自が料理を持ち寄りかなりの量がありましたが、みんなペロリと食べてしまった爆  笑今のままだと断食の修行は難しいな。。。

 

常に笑いのある楽しい場所。みなさんきっと毎週お会いしていると思うのに話が尽きない。色んなお話もしました。万能感。自分に自信がない人が陥りやすい。私だなぁと思いました。私の場合は自分よりも才能のある人を羨ましく思ってしまって、自分が努力しても才能ある人になれないから、だったら手っ取り早く才能のある人の側に行き、自分がその人の右腕かのように振る舞うことで自分に才能があると思ってしまうこと。

 

私も学生の頃アルバイトしている時にそうでした。フロントリーダーをしていて、店長に頼られている事が嬉しくて、私が初めて人に認められたような気がしてようやく居場所ができたのがアルバイト先でした。今まで引きこもりのように家にいた私が家には寝に帰るだけで、あとはずっとアルバイトをしていた。仕事も楽しかったけど、私の発言がまるで店長が発言しているようにみんなに思われるのが嬉しかったし楽しかった。でも、当時の私は今以上に人の気持ちなどわからないし、今も言葉を選んで話せないように、当時かなり同僚から反感をかってしまったというか下剋上にあったので、その経験があるからかあまり力ある人の側にいたいとは思わないと思っていたが、昨日先生のお話を聞いていて私にも関係あることかもしれないと思い始めた。

 

私は以前先生と敬語ではなくフレンドリーに話をしていた。単に世間知らずというかマナー違反というわけではなく、これも万能感が無意識に成せる技。先生とフレンドリーに話すことによって、周りの人に”私先生と仲がいいのよ”アピールだ。私が最も嫌いなタイプだ。そんな奴に出会ったら愚痴をこぼして小馬鹿にしているに違いない。先生が以前イライラする人を見たら、その人が自分の隠している仕草をしているからとお話しされていて、今までピンとかなかったが昨日みんなで万能感のお話をしている時に”アッ!これだ!”と気づいた。

 

今までは、私はそんなアピールする奴じゃないのになんでイライラするんだろう?って、私がこんな人たちと一緒のはずがないと思っていたが一緒だったショボーン

 

先生や法友の方々と一緒にお話をしていると、自然と自分を観る話になるのでとても勉強になります。その時の会話の内容はまた後でバイバイ