●早川雪洲さんが当館の宴会場に来ていたそうです♪
あの日本が生んだ最初であり、今までで一番有名なハリウットスター「早川雪洲」さん。
彼は南房総市千倉町に生まれました。
場所は当館より白浜よりの七浦地区。
海岸通りの堤防にアート作品が展示されているのですが、生家近くの海岸には雪洲さんを描いたアート作品が展示されています。
早川雪洲さんのことを詳しく記述した「セッシュウ!」と言うハードカバーがあるのですが、そこにどうやら当館のことが記されているそうです。
先日ご宿泊のお客様に教えて頂きました。
そのお客様に本のコピーを頂戴しました。
1949年(昭和24年)の「千葉新聞」に記事が載っているそうで、
ここから・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「千倉町ユネスコ協力会でも、早川雪洲氏の帰郷を記念とし、8日午後1時から同町朝夷小学校で同氏の講演会を開催、午後6時から鈴木旅館で有志による歓迎会をかね、雪洲氏をかこんで懇談会を開く。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ここまで
となっています。
当館は、明治32年からこの場所にあり、朝夷小学校は僕の母校でありますし、徒歩約5分の場所。
昭和24年は僕の祖父であり、魚拓荘鈴木屋の2代目の時代です。
3代目の父は昭和6年生まれですから、まだ学生として千倉にいたか、東京で大学生だったかは定かではありません。
当時、この地にあった「鈴木」の名前が付いた旅館は当館だと思われます。
その当時は「魚拓荘鈴木屋」と言う名前ではなく、「鈴木屋旅館」と言っていましたから、新聞がそれを「鈴木旅館」と誤記したのではないかと思います。
父が存命なら、その話を聞けたのですが、数年前に他界していますので、それが残念です。
でも、当館で早川雪州さんの懇談会をやっていたと聞くと、本当に嬉しくて名誉なことだと思います。
今回、そのおお客様といろいろお話したのですが、「早川雪州」さんのいろんな資料や記録はそんなに多く、出生地である千倉には存在しないことがわかりました。
観光協会や市役所の観光プロモーション課にも教育委員会にも、これと言った資料がありません。
きっと生家の近所の方に尋ねれば、昔の写真なで出てくるかもしれません。
こんな偉大な方がいらっしゃったんですから、今後はその資料をきちんと集めて後世に伝えていくことが大事ではないかと深く思いました。
ちなみに午後6時からの「懇談会」はきっとお酒の入った「懇親会」だったのでは、と思います。
当時の当館の宴会場は今も同じ場所にあります。
今はレイアウトは変わってますが、昭和の頃はこんな感じでした。
【正面】
【宴会場】
【宴会場の芸者さんたち】
宴会場の名前を「雪洲」に変えようかな( ´∀` )
色々お教え下さったそのお客様。
本当にありがとうございました。勉強になりました。