●NHKの「東京ブラックホールⅢ」でバブル時代を思い出す♪ | 南房総千倉・魚拓荘鈴木屋 ・ さざえのつぶやき(ブログ)・ お魚料理をお部屋か個室で楽しむ宿♪ 

●NHKの「東京ブラックホールⅢ」でバブル時代を思い出す♪

 

 

今日の午後、たまたまテレビを見ていたらNHKで昨年放送した「東京ブラックホールⅢ」の再放送をやっていました。

何となく見ていたのですが、吸い込まれるように最後まで見てしまいました。

主人公は俳優の山田孝之さん。伊原立花さんもいい味出してた。

脚本は、この時代を描かせたら当代一の一色伸幸さん。

 

当時の映像の中に山田さんや伊原さんの映像をミックスしたり、当時の映像そのままだったり。

ドラマ仕立ての部分とドキュメンタリーの部分が混ざり合って、不思議な流れになっていました。

でも面白かった。

一番印象に残ったのは、バブル時代に「バブル」って言葉はなかった、みたいな下りです。

確かに、あの狂乱の時代が終わってからマスコミが「バブル」と言い始めたんですね。

 

1984年にホテルマンになった時、大卒の初任給で確か、手取りで115,000円位でした。

そもそも帝国ホテルに入りたかったので、給料は二の次でした。

大学時代に居候していた府中のおばさんの家を出て、やはり4卒の新入社員で地方出身のK君と北綾瀬の2DKのアパートに住むことになりました。

入社試験の最終面接までに10回位は呼ばれたので、最後まで残るメンツと

 

 

は必然的に仲が良くなり、結果、一人でその給料では生活できないと言う結論から2人でシェアして住むことにしました。

 

入社して最初に僕はタワー館地下のラ・ブラスリーに配属になり、3か月間、ウェイターとして働きました。

一方、K君は客室係として客室清掃とベッドメーキングの仕事をしていました。

彼は朝が早く、帰りも早い。

僕のレストランはランチからの営業でしたので、朝はゆっくり、夜は遅い。

結果、彼とは同じアパートに住んでいながら一週間に何回も顔を合わせませんでした。

北綾瀬の駅の周りにはあまり食堂とかなく、たまに夕ご飯や出勤前に昼ご飯を食べる時は綾瀬で降りて、イトーヨーカドーの中のレストランで食べました。家賃を払うと、ほんの少ししかお金が残らないので、外食は稀でした。

 

一年後、上高地で3か月間働くことになり、僕は北綾瀬のアパートを出て、荷物をおばさんの家に預けました。

彼は僕の後釜にやはりホテルの高卒の同期のG君を誘い、3か月間は彼が北綾瀬のアパートを守ってくれました。

上高地では3食付き。

上高地では客室係として勤務していて、17時には仕事が終わり、食堂で「夕焼けにゃんにゃん」を見ながらお腹一杯ご飯を食べることができました。

幸せでしたね。

 

上高地の研修を終えると、いよいよ本配属。

僕と彼はたまたま一緒にフロントに配属になりました。

 

フロントでは残業こそ余りありませんでしたが、週に2回 夜勤があり、その他、チップも分配されたので、段々手取りが上がってきました。

また、組合活動も盛んで、毎年会社側にベースアップの要求をして確実に給料が増えていきました。

そこで、おばさんの家を出て、三鷹のコーポに引っ越して、一人暮らしを始めました。

物価は毎年上がっていましたが、給料も確実に毎年増えていました。

当時は一ドル200円代だったと思いますが、ホテルは本当に忙しかった。

外国人比率がきっと70%位あったのでは?と思います。

成田からのエアポートリムジンがホテルの玄関に到着すると、大きなスーツケースを持った外国人のビジネスマンがどっとチェックインカウンターに押し寄せ、まるで自分がチェックインマシーンになった様でした。

最大限の売り上げを目指し、常にマイナスでスタートしていました(実際の客室数より多く販売すること。当日キャンセルやノーショーと言って連絡なく未到着の予約を過去のデータをもとに見込んでいた)。

つまり100室の客室数に対し110室とか、多めに予約を取ること。

これを「積む」とも言っていました。

それがうまくいくと、稼働率がほぼ100%になりますが、失敗することもあります。

オーバーブッキングです。

僕がフロントで夜勤の時も数回、オーバーブッキングがありました。

僕たちは「パンク」と呼んでいました。

その場合は、すぐにニューオータニかオークラに電話して空室があれば、帝国のお客様を受けてもらいます。

当時この3つのホテルが「ホテル御三家」と言われていましたので、お互いに融通しあっていました。

僕の経験では一晩に2回、パンクしてお客様をニューオータニまでお連れしました。今では貴重な経験です。

 

フロントの後に客室予約課に配属になった時には、僕がこの予約数のコントロールの責任者になりました。

今まで所属していたフロントのメンバーからは「鈴木、こんなに積んで大丈夫か?もしパンクしたら夜中に電話するからお前がお客様をオークラに連れて行けよ。」なんて冗談で言われましたが、もし携帯電話があったら本当にかかってきたかも。なくて良かった(笑)。

 

客室予約時代も忙しかった。1988年から1991年頃。バブル崩壊前夜ですね。残業時間は40時間を超え、給料も右肩上がりでした。

初めて渋谷のビームスでちゃんとしたスーツを買いました。

当時で10万円以上したと思いますが、素敵なスーツでした。

 

 

宿泊の予算を作成する係になった時には、前年比で130%位の予算を作ったことがありました。

部長や役員の前で、その根拠を説明するのが大変でしたが、一年後にそれが140%位で達成される様な、そんな時代でした。

 

前に申し上げた通り、僕はそのバブル状態が普通なのだと思っていました。毎年、確実に企業の売り上げは右肩上がりで、物価も上がるが給料も増えると。

僕自身は1991年の夏にホテルを退職し、実家の旅館に戻りました。

そこでバブルが崩壊。

旅館も大変な時代を迎えました。

 

でも、あのバブル全盛期に、最高にいかしてた東京で働いて遊ぶことができたことは大きな財産です。

今でもたまに当時の夢を見ます。

いい時代でした。

 

 

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