おかあさん、わたしは、

 

不快ではありませんでした。

 

 

 

このシーンで不快になったのは

 

お母さんが不快になったのを見たので

 

ついうっかり、真似しちゃっただけでした。

 

 

お母さんに、この不快な感情をお返しします。

 

 

 

 

すると、











ぐりちゃん、リブログばっかりですみません(汗)

昨日の、子供が泣いているときに感じる感情。

その事を書きますね。










ママとお別れしてから、

「ママぁぁぁぁあぁぁぁあまぁぁぁぁあ」

と、別れの悲しみ全開の時。

こみ上げてくる無力感。

可愛そう。

代わってあげたい。

辛いね。

僕には何も出来ないのか、

何もしてあげられないね。










、、、、、

これは、

昔味わった事がある無力感。

僕は、

母親に何もしてあげられなかった。

僕は、

母親との会話は、

夫への心配、兄への心配、姉への心配。

繰り返し、繰り返し1日のうちに何度も聞いた。

何とかしてあげたくて、

あれやこれや、解決策を考えては、

母親に助言してあげた。

何とかしてあげたくて、

わからないことは、人に聞いたり、本で調べたりした。(当時はネットはない)

それでも、その心配は変わらなかった。

その、無力感。

僕は、母親に役に立てなかった。

そんな意識を知らず知らず抱えていたらしい。

無意識にね。











最近、母親に聞いてみた。

心配するのって、昔からなの?

答えはyesだった。

好きで心配してたのだ。

だから、僕に何度も話してくれたあの問題が解決しても、

新しい問題を持ってきては心配する。

ようは、彼女の問題だったのだ。

僕が、気にすることではなかったのだ。

彼女の問題を、僕の問題として取り上げていただけなのだ。











僕は、相談される事がよくあるのだが、

その人が怒ってたり、悲しんでたり、心配していたりする時はよく、心が揺さぶられた。

それは、母親と自分との関係を重ね合わせていただけなのだ。

何とかしてあげたいけど何も出来なかった無力感。

それを、解決したくて。

でも、叶わない事を再認識したくて。











そもそも、彼女は、心配したかった。

心配させておけばいいのだ。

僕に話す事で、気が晴れている可能性もある。

僕以外の人に、同じような話をしている可能性も高い。

だから、僕が解決する必要がなかった。

そもそも、僕が解決することは不可能なのだ。











子供が泣いていた。

それは、その子の問題。

僕は、その子が悲しさを味わい尽くしてから、

「悲しかったね。後で美味しいものを食べようか。」

そう、いうしか出来ない。

こっちに寄ってくるまでは。

岩戸のこちらから待ってるよ。

こっちは楽しそうでしょ?

こっちへおいでよ。


死んだふりも上手。

ようは拗ねてるんだけどね。

幸せな今に感謝です。

心理カウンセラーそうてふです。