一般的に徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物の事を指す。
(wikipediaより)
これに照らし合わせてみると、自分は聖人とは程遠いですね。
実に好き勝手してきていると思います。
幸い暴力的な人間ではない事に安心していたりもします。
今は、何ゆえに各々の思いを巡らせるのか、行動を起こすのか
その当時とは何かが違う感覚が確実にあります。けれど筆舌に尽くしがたい。
大体の化学変化は解明されていても、人のそれは中々難しいものです。
解明、理解まで膨大な労力と時間が必要です。
故にどこか表面的に判断し、誤解も多く発生しています。
人は答えをだしたがるし、決め付けがちです。
思われたり、思いもしてきました。
個人的に、人間とは喜怒哀楽があり、さまざまな考え方ができる一方
あとは動物となんら変わらないオスとメスだと思っています。
さまざまな考え方ができる、という能力が複雑化していることは
言うまでもありませんが、大体の…おおよその人はどこかで
自分本位に考えてしまう傾向があります。例外なく自分にもあります。
嫌いだから威嚇したり、ケンカしたり、暴言を吐いたり
面倒だから投げ出したり、卑屈になったり、厭味を言ったり、無視したり。
こういうことって全部書いていくと実にありすぎるので省きますが
逆に、あげたことの逆を行える能力も人には備わってます。
何故そうでありながら、その能力を使わないのか
それも上に書いた事に起因すると思います。
僕は今まで生きてきたその中で半分以上、もしくはそれ以上の
なんらかの否定をしてきたと思います。
何かを否定することって無意味とまでは言いませんが、残念な事だと思うのです。
NO!と突き放すのみではなく、受け入れてみてからお互いがお互いに対して
YESに持っていく事が何よりも早い発展だと思います。
お互いがお互いを思い、協力しあい、その誰かに足りないものを
誰かが補填し、しあい、そこで得た物、知恵を次につなぎ、伝える。
文化なんかはそういった受け入れあい、認め合い、伝えられる事で
保たれ、受け継がれ、発展していっているのではないでしょうか。
そこにはまた人間関係の複雑な部分が絡みます。
個人的な「トク」を優先したり、思い入れ、義理がどうの
好きか嫌いか苦手かどうでもいいか、流れや環境、空気でどうこうなった。
何かのためにって面倒ですか?
きっと多くの人がどこかで面倒だと思ってるはずです。
そうでなければ、たとえば貧富の差という概念はまず無いはずだし
先日見た、猫のことだってなかったはずです。
道に倒れている人を純粋に助けたくて手を差し伸べた所
素直に受け入れられない感情が働き、その手を弾いてしまったり
はたまたこれをきっかけに変に言い寄ったり
どちらか一方に、人のためにという思いが欠けていると
良い結果を招きません。
お互いがお互いを思えるのなら、気分が良いし
その気分の人がまたどこかで人に与える事ができますよね。
世界はどこかにいる数少ない聖人がいてこそ、
成り立っているものなのかもしれません。
既にそんな事わかってるし、している人には申し訳ない話でしたが
何らかの物質、ステータス、感情に目がくらみ、
与えず、自己の中で終わらせたり、残したり隠したり、犠牲や痛みから
極力避けてしまっている人は、ほんのちょっとでも良いので
自分以外の何かのためにやれているのかな、生きているのかな?
面倒だったり、損得で決め付けたりしてないかなと思ってみてください。
人は喜怒哀楽がありますし、考えられます。
そしてそれをもとに行動を起こせます。
たったそれだけで理解しあえ、優しくなれると思います。