キャラクターについて考える前に、まずは「ひと」について考えてみたい。よくキャラクターには一貫性が必要であると言われるが、そのキャラクターたる「ひと」がいかに矛盾を孕んだ存在であるかということを考えたい。そこから、キャラクターの魅力、あるいはそのキャラクターを支えるものについて明らかにしていきたい。
例として、2011年下半期の傑作テレビドラマ「カーネーション」の登場人物・小原善作(小林薫)を挙げたい。善作は、主人公・小原糸子(尾野真千子)の父であり、ドラマの前半において糸子に立ちはだかる、超えるべき巨大な障害として存在している。そしてそれが成されるか否か、この親子の対立と糸子の葛藤がこのドラマの前半の要であり、目標であり、それは成長して一家の大黒柱ともなる後半の糸子にも大きく影響を与える。
この善作の性格がむちゃくちゃなのだ。豪快にして型破り、愚かで他人のことをどこまで思っているかもわからないが、そんな自分への、内に秘めた葛藤も滲ませるその人物像は一筋縄ではいかない。糸子の幼少期には、集金のために糸子を客の元へ向わせ、お金を貰うまでに理不尽とも思えるような扱いを糸子に向ける。だが一転して、糸子が集金に成功して帰ってくると、満面の笑みで糸子を迎え抱きかかえる。ポイントは、この飴と鞭とも思える善作の振る舞いが、決して教育的観点から行われているものではないだろうことだ。教育よりも前にまず商売が立っている。商売人としての、生活を支える一家の主としての振る舞いであった。ここでまず、善作のキャラクターの前提が立脚している。対する糸子自身も、まだこの頃はそれを受け入れ、父の歓ぶ顔が見たくて、一心に父の愛を切望する、明るく純粋な女の子である。
しかし、その後、初めての親子の対立が訪れる。それは、糸子が川で少年達とケンカと言う名の大立ち回りをして帰ってきたときのことだ。糸子は負けん気が強く、男勝りだったが、そんな糸子を善作は叱責し、彼女の頬に張り手を食らわす。善作は、今は勝つことができても、すぐに成長して、男は大きくなり、力も強くなり、女である糸子はそれには到底敵う存在ではないことを身をもって伝える。この事件こそが、ドラマ「カーネーション」の主題の開幕を告げる一大事件であった。生まれ持った性によって、自分の意思ではどうすることもできないというこの不条理。父・善作は、超えるべき存在であると共に、女としての糸子が闘わなくてはならない男性社会の象徴でもあったのだ。それは糸子にとっても正に理不尽の象徴であり、矛盾を孕んだ男、矛盾を孕んだ人間の姿であった。