そんな理不尽を体現するかのような善作のキャラクターであるが、その魅力が更に表れているのはどこか。それは、成長した糸子が自分の店を持つことを決意し、それを善作に伝えるという前半の最大の見せ場によく表れている。この回にまでなると、父と子の対立は最早決定的ともなっており、一家の家計を背負っているのも糸子であった。そんな糸子が父についに引導を渡す。父は激怒し、家族のために糸子が買ってきたクリスマスのケーキをひっくり返し、糸子の頬に強烈な張り手を食らわす。「こげかっ!」強烈な理不尽に見舞われた糸子の頬は、その手の形がはっきりわかるほどに赤く腫れ上がっている。だがしかし、その理不尽を見舞った善作の表情は、なんとも表現しがたい、歯がゆさと情けなさを知る煮詰まりきった曇天模様。怒りに任せた暴発は、その直後に瞬時にしてその無力さを知ってしまった。この時の善作は、自分の、自分の言動の理不尽さ、不条理さを知っている。かつて存在した根拠なき絶対の自信としての力は、その根拠のなさゆえにハッタリでしかなくなってしまったことを知っている。男根は敗北した。糸子は張り手を食らうことで、父の男根をへし折った。この理不尽と無力感が、一人の人間に、ひとつの瞬間に同居してしまった。善作は内なる葛藤を抱えた人間であった。それは正に人間らしさと呼べるものであり、善作が滲ませたその悔しさとやるせなさは共感を抱かせる。善作は、決して絶対的ではいられなかった。時代の流れや、自らの至らなさによって、自分もいち人間であるということを嫌でも知ってしまうこととなった。
こうして見事、男性性からの勝利を勝ち取った糸子は、後に店の職人としてやってくる妻子ある男と不倫関係となる。それは正にあってはならないこと。決して周囲からは祝福を得られない禁断の関係である。男性性に勝利した糸子が男性性を欲するという矛盾を孕んだ人間性(キャラクター)は、父・善作から引き継いだかのように、中盤から終盤に至るまで、ドラマを盛り立てる大きな魅力として視聴者を釘付けにさせた。
男性性に闘いを挑む女性性としての一貫性は、男性性に魅かれるというその矛盾によって、人物の内面の葛藤という魅力を引き出す原動力となった。つまりは、キャラクターとは、一貫性を持ちながらも、その一貫性により必ず相反する壁にぶち当たり、葛藤を生むのだということだ。その一貫性は、人物の目標や欲によって導きだされ、その過程における障害が葛藤を生み、ドラマを作っている。
人は多くの矛盾を抱えた生き物であり、完璧な聖者も存在しない。一貫性とは、対立を浮かび上がらせ、葛藤を生むための方法論でしかないのだ。一貫性がないとは、葛藤が弱い、ぶち当たる壁がうまく表現できていないということとほぼ同義であるといえるのではないだろうか。
「周防よ…。外れても踏みとどまっても、人の道や。…お、五七五になってんなぁ…」三浦