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たびげいにんのこや

備忘録として、色々なことを書き綴ります。

ネットの世界に初めて旅立ちました。

自らの罪によって社会性を喪失した男が、心を閉ざすようになるも、近所の人々や、ある女との出会いと交流によって、再び社会性を取り戻す物語。



あらすじ


 浮気をしていた妻を殺した夫・拓郎が、8年間の服役を経て仮釈放され、保護司や近所の人間に支えられながら理髪店を開業し新たな生活を始める。そんな拓郎が唯一心を開くのは、飼っているうなぎだけであり、周囲の人間に自らの過去を知られぬよう、静かに暮らすことを望んでいる。

 ある日、自殺未遂を起こした女・桂子を救ったことが縁で、彼女が理髪店で働き始めることになる。桂子は、次第に拓郎に想いを寄せ、彼への献身に努めるが、拓郎は心を許すことはない。桂子は、過去にトラブルを抱えており、かつて愛人だった男・堂島が理髪店に乗り込んでくる。彼女が会社の金を持ち出したのだという。だが、それは、桂子の母の預金であり、堂島はその預金目当てで桂子と関係を持ったのだった。拓郎や近所の仲間が堂島達と殴りあいとなり、怒り暴れる堂島を制するため、拓郎は剃刀で堂島に切りかかってしまう。そして、桂子の妊娠が明かされる。桂子は、堂島の子供ではないという。そして、拓郎は、桂子を救うために、その子供は自分の子供であると告げる。

 刑務所へ戻ることとなった拓郎は、飼っていたうなぎを放流する。仲間たちに見守られながら、そして、桂子とお腹の子供を残し、拓郎は刑期へと戻っていく。




感想


 見終わって、この話はナンだろうと思った。途中、私は、主人公のアイデンティティの崩壊と回復の物語だと思っていた。主人公は、自身をうなぎに投影し、自分の世界に閉じこもって生きていくのだと。そこに何かを見出すのだろうか、と。


 だが、この映画はもっと大事なことを描いていたように思う。つまり、それは社会性である。社会性なくして、人間はアイデンティティを保てない。いや、アイデンティティの獲得だとか不安だとか、そんなことより、社会性の獲得の方が、よっぽど人を助ける(救う)のだよ。という、そういう物語なのだった。

 主人公の自我の動向に注視していた自分は、いささか自分のちっぽけさが露呈してしまったようで恥ずかしいのだった。

 愛を見捨てなかった、愛に見捨てられなかった主人公。それに対して、柄本明さんが演じた男は、愛を見捨てた、愛に見捨てられた人物であり、欲望と自己愛にのみしか生きるすべの無くなった、主人公が成りえたかもしれないもう一つの可能性だった。

 愛とは社会性であり、欲望は単なる自己愛。その狭間での人間の葛藤。どちらも人間の本質。

 問題は、主人公が妻を殺したのは、愛だったのか、自己愛(欲望)だったのかというところ。主人公は最初、妻を殺したことを反省していなかった。それは妻を愛していたからだという。愛ゆえのことだったと。本当にそうだったのだろうか。それは自己愛ではなかったのか。嫉妬という自己愛・欲望ではなかったのか。うなぎと向き合っている限り、本当に罪を自覚することはなかった。でも、周囲の人々との交流が次第に主人公の気持ちに変化をもたらした。

 映画のラストで主人公の認識に変化はあったのだろうか。うなぎを放流したとき、考えは変わっていたのだろうか。おそらく、完全な答えの出ないまま、わずかに葛藤を残しつつ主人公は生き続けるのだろう。そんな思いが、最後の主人公の表情に表れていたように思う。





 例えどんな境遇に陥っても、社会性の獲得を目指しましょうよ、という物語かなと思いました。