74 猛獣はそのまま走らせて、自分はさっと脇にそれる。あるいはその場で停まる。そうすると勢いづいている猛獣は急にブレーキをかけられません。「とんでもないことになった」と恐怖感、脅迫観に教われても、逃げずに踏みとどまれば、その感情は消えてしまう。くれぐれも、恐怖感に追われて走りだしてはいけません。恐怖という猛獣が暴れまわり、走りまわっても、自分まで走ってはいけないのです。
90 一瞬にして生まれてくる怒りまでもみえてくるようになれば、一応「怒りを克服している」
どんな些細な怒りについてもしっかりと気づいていくためには、まず怒りについてよく知る必要がある。心で湧き上がる感情が、「怒り」と知らなければ、気づくことはできません。
92 「怒り」とは、基本的には「これは嫌だ」「これはだめだ」という反応です。
95 怒りは溜まれば溜まるほど強い破壊力を発揮します。放射能と同じです。溜まれば溜まるほど危険です。外に向いたら外が壊れるし、自分に向かえば自分が崩れます。
100 最初のふ通の怒りがドーサ。怒りを妄想で繁殖してしまうのがウパなーは。怒りは「繁殖させるものではないのだ」としっかり理解しましょう。例え怒っても繰り返し怒るなかれ、と覚えて下さい。
140 もし怒ってしまったら、なにもしないで、何も言わないで、そのとき産まれた怒りをほうっておきます。怒りに「考える」という燃料をあげないで、心まで止めて下さい。頭の思考も、言葉を発することも、身体を動かすことも突然止めて、フリーズ状態になってみてください。ただ止まって黙っていればいい。
人は皆、怒りが込みあげるとやけに行動的になるのです。(略)これが放射線を浴びる(被曝)するよりも危険なのです。「怒ったら停まるんだよ」
怒ってしまったら自分と戦う必要もないし、相手を交易する必要もない。そのまま身体を止めておくだけ。「怒ったら止まる」くれぐれも怒りと戦って、その怒りに燃料を与えてはいけません。
157 「自分というなにかが実在する」と思い込むと、次から口へと怒りが湧いてくるのです。なぜかというと、観るものや聴く音、あらゆることが自分で管理できないからです。(略)私たちはいつでも、しっかり真理を学んで自分を管理しなくてはならないのです。
161 本当は「自我」という殻は幻覚です。しかしこの幻覚があるので、怒りが際限なく生まれてしまいます。例え私が「雨は降ってほしくない」と思っても、雨はやみません。私に「聞きたい音、聞きたくない音」を判断する権利があるものでしょうか。その人が自分に対しtえ何を言うのか、聞く法で管理するなんて無理な話です。
自我で、幻覚で、自分意外のものを管理仕様としているのです。
たとえば、誰かが「もう、うるさいわね。あなたの声が大きくて」と思ったとするでしょう?それはその人が私の声を管理しようとしていることになります。仮に「あなたの気分が悪くなるのなら」と私のほうで声を調節して小さくしたとしましょう。すると、今度は私の気分が悪くなります。
164 世の中の音を自分の好き勝手に管理することはできないし、見えるものを管理することもできません。しかし人間は結局、それをやろうとしています。
174 「怖い」という「怒り」が自分の中で燃えてしまいます。自己破壊です。その怒りを克服するためには、理解が必要なのです。
177 「適度・適量を知る」「余分なものはカットする」という生き方をします。
自分にはどの程度が必要で、どの程度なら管理できるかを問題にします。
適量・適度というのは自分で管理・管轄できる範囲です。管理しすぎても自己破壊ですし、管理できなくなっても自己破壊です。
「いくらあってもいい」ではなくて「どの程度ならば管理できるのか」で考えるべきです。
182 人のはなしを聞いて腹が立つ場合も同じです。本当に怒っているのは、耳で音を感じていることだけ。それを脳で解釈して「私」が怒っている。しかし、その怒っている「私」はあとから割り込んだもの。
本当は「自分」というのはただ流れていくだけです。聴覚が流れて消えていく。感覚が流れて消えていく。寒くなれば寒いという感じが流れて消えていく。自分には何も管理できません。
自分というものははじめからないのです。
184 すべての物事は希望通りにいかない、因果法則の通りになアレルのみということです。
「自我」という錯覚によって怒り憎しみが現れます。しかし、本当は、ものごとはただ単に変化しているだけです。
189 なにかを欲しいと思ったときに「必要」と「欲しい」のさをつけてみるといいでしょう。おいしいものをもっと食べたいという希望があったときにも、必要と欲しいのさを見極めて、必要以上にとらないようにするのです。それが正しい謙虚な態度です。
198 自我が錯覚だと理解できてはじめて、人々が皆ことごとく苦労して生きていることに気づくのです。エゴの錯覚が生み出す矛盾で皆、苦しんでいることを発見するのです。エゴの錯覚に気づかず四苦八苦して生きている人々に対して、微塵も嫌な気持も怒りの気持もおこらなくなるのです。かわりにすべての生命に対して憐れみの気持、慈しみの気持が起きてしまうのです。それが怒りの終焉でもあります。
怒らない性格とは、真理を理解することによって、智慧によって、おのずから現れてくる人格です。
206 良いことはしにくい。悪いことはいとも簡単にできる
217 目的をつくるときでも、ブッダの智慧を借りたほうが安心です。まず目的を達した時をイメージします。そしてそれは自分のためになるか、それで自分は幸福になるかを推測してみます。自分に「役に立つかどうか」
たとえ苦しいことでも、「実現したらみんなの役に立つ」ということであれば、充実感をエられます。
周りの人の役に立つか、人類一般の役に立つか、そこまで考えて「悪くない」と思ったら道徳的な判断で実行すればよい。
実行する間でも、「私の」「周りの」「人類の」役に立つのかというチェックをしていきます。もし途中で結果が悪くなると気づいたら、そこで実行はやめます。
負うなのはキツイのです。
人には「誰かの役に立っている」という実感が必要です。小さなことでも「私は結構役に立っているんだ」と思えれば、楽に生きられます。
なにかをやろうとするときには、欲でするのも、怒りでするのもだめなのです。必要なのは喜びを感じることです。
何かをやるうえで、喜び・充実感を感じなさい、達成感を感じなさいということが大切なポイントです。それが成長の道、脳を開発する道です。
怒りで行うことは、一つ一つ、もれなく苦しいのです。
脳科学的に観あえても、脳が喜びを感じると動きます。ストレスを感じるとうつになってしまいます。
はりきりすぎない。適当な努力でなんのことなく自分のパートをやればいいのです。
仕事や子育てなら、「喜びや楽しみを感じればうまくいく」
227
私は幸せでありますように
私の親しい人々が幸せでありますように
生きとし行けるものが幸せでありますように
という言葉を、頭で繰り返し繰り返し念じることで、もう怒らなくなってしまうし、字がもなくなってしまいます。
233 人間は怒りやすい生き物ですから、強引にでも怒りの反対の気持「慈しみ」を植えつけないとうまくいきません。
「役に立とう」「嫌なきもちでは生きない」「みんなが幸せでありますように」という気持はわれわれに本来ないものですから、飢えるのです。
慈しみで生きますよ。
90 一瞬にして生まれてくる怒りまでもみえてくるようになれば、一応「怒りを克服している」
どんな些細な怒りについてもしっかりと気づいていくためには、まず怒りについてよく知る必要がある。心で湧き上がる感情が、「怒り」と知らなければ、気づくことはできません。
92 「怒り」とは、基本的には「これは嫌だ」「これはだめだ」という反応です。
95 怒りは溜まれば溜まるほど強い破壊力を発揮します。放射能と同じです。溜まれば溜まるほど危険です。外に向いたら外が壊れるし、自分に向かえば自分が崩れます。
100 最初のふ通の怒りがドーサ。怒りを妄想で繁殖してしまうのがウパなーは。怒りは「繁殖させるものではないのだ」としっかり理解しましょう。例え怒っても繰り返し怒るなかれ、と覚えて下さい。
140 もし怒ってしまったら、なにもしないで、何も言わないで、そのとき産まれた怒りをほうっておきます。怒りに「考える」という燃料をあげないで、心まで止めて下さい。頭の思考も、言葉を発することも、身体を動かすことも突然止めて、フリーズ状態になってみてください。ただ止まって黙っていればいい。
人は皆、怒りが込みあげるとやけに行動的になるのです。(略)これが放射線を浴びる(被曝)するよりも危険なのです。「怒ったら停まるんだよ」
怒ってしまったら自分と戦う必要もないし、相手を交易する必要もない。そのまま身体を止めておくだけ。「怒ったら止まる」くれぐれも怒りと戦って、その怒りに燃料を与えてはいけません。
157 「自分というなにかが実在する」と思い込むと、次から口へと怒りが湧いてくるのです。なぜかというと、観るものや聴く音、あらゆることが自分で管理できないからです。(略)私たちはいつでも、しっかり真理を学んで自分を管理しなくてはならないのです。
161 本当は「自我」という殻は幻覚です。しかしこの幻覚があるので、怒りが際限なく生まれてしまいます。例え私が「雨は降ってほしくない」と思っても、雨はやみません。私に「聞きたい音、聞きたくない音」を判断する権利があるものでしょうか。その人が自分に対しtえ何を言うのか、聞く法で管理するなんて無理な話です。
自我で、幻覚で、自分意外のものを管理仕様としているのです。
たとえば、誰かが「もう、うるさいわね。あなたの声が大きくて」と思ったとするでしょう?それはその人が私の声を管理しようとしていることになります。仮に「あなたの気分が悪くなるのなら」と私のほうで声を調節して小さくしたとしましょう。すると、今度は私の気分が悪くなります。
164 世の中の音を自分の好き勝手に管理することはできないし、見えるものを管理することもできません。しかし人間は結局、それをやろうとしています。
174 「怖い」という「怒り」が自分の中で燃えてしまいます。自己破壊です。その怒りを克服するためには、理解が必要なのです。
177 「適度・適量を知る」「余分なものはカットする」という生き方をします。
自分にはどの程度が必要で、どの程度なら管理できるかを問題にします。
適量・適度というのは自分で管理・管轄できる範囲です。管理しすぎても自己破壊ですし、管理できなくなっても自己破壊です。
「いくらあってもいい」ではなくて「どの程度ならば管理できるのか」で考えるべきです。
182 人のはなしを聞いて腹が立つ場合も同じです。本当に怒っているのは、耳で音を感じていることだけ。それを脳で解釈して「私」が怒っている。しかし、その怒っている「私」はあとから割り込んだもの。
本当は「自分」というのはただ流れていくだけです。聴覚が流れて消えていく。感覚が流れて消えていく。寒くなれば寒いという感じが流れて消えていく。自分には何も管理できません。
自分というものははじめからないのです。
184 すべての物事は希望通りにいかない、因果法則の通りになアレルのみということです。
「自我」という錯覚によって怒り憎しみが現れます。しかし、本当は、ものごとはただ単に変化しているだけです。
189 なにかを欲しいと思ったときに「必要」と「欲しい」のさをつけてみるといいでしょう。おいしいものをもっと食べたいという希望があったときにも、必要と欲しいのさを見極めて、必要以上にとらないようにするのです。それが正しい謙虚な態度です。
198 自我が錯覚だと理解できてはじめて、人々が皆ことごとく苦労して生きていることに気づくのです。エゴの錯覚が生み出す矛盾で皆、苦しんでいることを発見するのです。エゴの錯覚に気づかず四苦八苦して生きている人々に対して、微塵も嫌な気持も怒りの気持もおこらなくなるのです。かわりにすべての生命に対して憐れみの気持、慈しみの気持が起きてしまうのです。それが怒りの終焉でもあります。
怒らない性格とは、真理を理解することによって、智慧によって、おのずから現れてくる人格です。
206 良いことはしにくい。悪いことはいとも簡単にできる
217 目的をつくるときでも、ブッダの智慧を借りたほうが安心です。まず目的を達した時をイメージします。そしてそれは自分のためになるか、それで自分は幸福になるかを推測してみます。自分に「役に立つかどうか」
たとえ苦しいことでも、「実現したらみんなの役に立つ」ということであれば、充実感をエられます。
周りの人の役に立つか、人類一般の役に立つか、そこまで考えて「悪くない」と思ったら道徳的な判断で実行すればよい。
実行する間でも、「私の」「周りの」「人類の」役に立つのかというチェックをしていきます。もし途中で結果が悪くなると気づいたら、そこで実行はやめます。
負うなのはキツイのです。
人には「誰かの役に立っている」という実感が必要です。小さなことでも「私は結構役に立っているんだ」と思えれば、楽に生きられます。
なにかをやろうとするときには、欲でするのも、怒りでするのもだめなのです。必要なのは喜びを感じることです。
何かをやるうえで、喜び・充実感を感じなさい、達成感を感じなさいということが大切なポイントです。それが成長の道、脳を開発する道です。
怒りで行うことは、一つ一つ、もれなく苦しいのです。
脳科学的に観あえても、脳が喜びを感じると動きます。ストレスを感じるとうつになってしまいます。
はりきりすぎない。適当な努力でなんのことなく自分のパートをやればいいのです。
仕事や子育てなら、「喜びや楽しみを感じればうまくいく」
227
私は幸せでありますように
私の親しい人々が幸せでありますように
生きとし行けるものが幸せでありますように
という言葉を、頭で繰り返し繰り返し念じることで、もう怒らなくなってしまうし、字がもなくなってしまいます。
233 人間は怒りやすい生き物ですから、強引にでも怒りの反対の気持「慈しみ」を植えつけないとうまくいきません。
「役に立とう」「嫌なきもちでは生きない」「みんなが幸せでありますように」という気持はわれわれに本来ないものですから、飢えるのです。
慈しみで生きますよ。