お盆休みで久しぶりに故郷の松山に帰った。慌ただしい都会の喧騒を抜け、海を渡り、いつしか電車の窓は故郷の象徴である松山城を映し出す。松山城は市の中心の山の上に立っている。松山を離れて生活している人は、松山城を見ると、やっと帰ってきたという思いを実感するのである。
だが、ぼくは松山に帰ると、懐かしさと同時に、あることを思い出し、心に霧がかかったようになってしまう。そして、そこから抜け出せなくなってしまうのだ。おそらくこの気持ちは一生続いていくのだろう。
ぼくは松山城のすぐ近くにある高校に通っていた。クラブは体操部に所属。1週間に一度、松山城の天守閣までランニングをしていたが、麓から135段の石段を駆け上がり、それが終わると、天守閣まで延々と続く山道を走っていくという非常にきついものだった。着いたら着いたで、腕立て伏せ、背筋、腹筋を100回ずつやらなければならない。腹筋は、補助者が足をしっかり押さえているものの、上半身が城壁から空中にせり出したカタチでやるという非常識なもので、補助者が手を外せば、真っ逆さまに30メートル下に落下してしまい、確実に死に至る。事故がなくて幸いだったが、よくそんな馬鹿げたことを考えた先輩がいたものだ。まぁ、今となっては、それも懐かしい思い出だ。
ぼくが在籍していた時代の5年前の体操部は国体に出場したらしいが、あっという間にレベルは下がってしまった。ぼくは高校1年の途中から入部したのだが、先輩たちの演技を見ると、「うそだろう」というくらい、ひどいレベルだった。なにしろ宙返りやバック転ができる先輩は7人のうち、たった1人だけだったのだ。体操部全体で一番うまかったのは、ぼくより少し前に入部した同じ1年生の山下で、ぼくが2番目という有様だった。他に入部した1年生は3人いたが、みんな中学時代は未経験者だった。山下は中学時代から体操部に在籍していたので、群を抜いてうまかった。
ぼくは小学4年の時、2年上の先輩たちと、遊びで鉄棒や床運動をしていた。鉄棒で大車輪や宙返りはその時マスターしていたので、自分で言うのもなんだが、生まれつき運動神経が優れていたのかもしれない。中学生になった途端、小学校で一緒に遊んでいた先輩に無理やり引っ張られて、数日間は体操部に在籍していた。だが、久し振りに体操競技をやると体がきつくて、根性なしのぼくは続きそうもなかった。また、その時期は、天文学に興味を持ち始めていたので、すぐに退部、天文部に移籍してしまった。中学時代は天文一筋だったのである。
高校の体操部での日々は、松山城へのランニング以外は、ほとんど緊張感がなかったので、とても楽だった。歯を食いしばって必死に上を目指すという空気感がまるでないのだ。みんなヘラヘラ冗談を言いながら練習していた。これではレベルが上がる道理はない。ぼく自身もあまり真剣にやって苦しい思いをするのが嫌だったから、適当にやり過ごしていた。
いちばん気の毒だったのは、山下かもしれない。彼はとても真面目な男だった。中学時代は松山でもかなり高いレベルの選手だったが、高校に入ってからは、まったく伸びなかったのである。やはりスキルアップするためには、良き指導者と切磋琢磨するライバルが必要なのだ。指導者はいなかったし、ぼくではライバルと言うにはあまりにも役不足だった。
あっという間に1年が過ぎ、2年生になった春のことだった。ぼくは相変わらず、のんべんだらりとした日々を送っていたが、山下はなんだかいつもの元気がない。ぼくは心配になって、何かあったのかと聞いてみた。山下ははじめ口を濁していたが、つきあっていた同級生の結衣にふられてしまったと白状した。
まさか結衣が山下をふるとは思わなかった。ぼくの目から見ると、結衣のほうが山下にベッタリだったように見えたからだ。山下と結衣は同じ中学校出身で、つきあいは中学時代からあしかけ4年になろうとしていた。解らないものだ。結衣は融通が利かない真面目なタイプで、心変わりするようには見えなかったのである。2人とも真面目過ぎるくらい真面目なタイプで、勉強もよくできる。ぼくとは正反対だ。
それ以来、山下は変わってしまった。練習にもあまり顔を出さなくなり、学業成績もかなり下がったようだ。意外とメンタルが弱いのかもしれない。時々、他校の不良とつるんで、ゲームセンターなんかで遊んでいるという噂も耳にした。なんだか顔つきも変わってしまった。大らかさがなくなり、神経質そうな顔つきへと変貌してしまったのである。しかも、どこか不良っぽい感じも漂わせている。根が真面目なヤツほど、一度堕落し始めると際限なく転がり落ちていくような気がする。ぼくは見ていられなくなって山下を呼び出し、話をした。
「何やってんだよ。ぜんぜん山下らしくないじゃないか」
「ほっといてくれ」
「たかが女1人にふられたくらいで、なんだっていうんだよ」
「恋人がいないおまえには解らんだろ」
「あぁ、わからんさ。でも、勿体ないんだよ。おまえほどの能力を持ったやつが、こんなことになるなんてさ」
「……」
それは本音だった。恵まれた素質を持ち、勉強ができて、顔は二枚目で、彼女もいて……ないないづくしの自分と比べれば、月とスッポンだ。たしかに結衣を失ったのは辛いだろうけど、早く立ち直ってほしいから、敢えて言ったのだ。
(後編に続く)

