今回引退ブログを書かせていただく滝澤健斗です。今回引退ブログを書くにあたって、まずブログを書くか書かないか非常に迷いましたが、高校時代の同期の引退ブログを読んでさすがに書いとくかと思い、書くことにしました。そしてせっかくなので4年間を振り返ろうと思ったら卒論くらい長くなってしまいました。あ、法学部の私のゼミは卒論ありませんでしたね。卒論に苦しんでいる方々失礼しました。でも同志社のサッカー部の人のブログは他大学サッカー部と比べて短いので同期の中では長い方だと思います。そのためこのブログを読む人はひとまず投稿にいいねをして時間がある時にでも読んでくれたら嬉しいです。
余談はこれくらいにしてさっそく本題に入りたいと思います。
あ、ここからは少しでも短くするために常体で書かせていただきます。
そもそも私が大学でもサッカーを続けようと思った理由は、高校時代選手権総出場時間4分という悔しさから、大学サッカーでもう一度チームの中心として活躍したいと思ったからである。このようなそれなりに強い気持ちで2021年4月頭にセレクションを受け、晴れて同志社大学サッカー部への入部を果たした。だが最初に言い渡されたカテゴリーはDチーム。当時、同期で桐光から一緒だった康介はもうすでにAチームでやっていて、熱田はCチームからのスタートだった。『自分が1番下』という現実を突きつけられあんなに頑張ろうと思ってたのに出鼻を挫かれてしまったような感覚になった。
しかし、それなりに気持ちを整理して練習に取り組んでいたらスタッフ陣に良くしてもらい、入部から1ヶ月で気付いたらAチームまで上がっていた。(これはちょっと自己満で書かせてもらいました。)そしてAチームに上がり、みんな上手いし強いし雄生さん(当時Aチームコーチ)は怖いしキツいなと思いながらも、高みを目指して頑張れる環境がそこにはあり、入部時に立てた目標を果たすため、毎日の練習に本気で取り組んでいた。そんな中、コロナ禍で過密日程が続き、ターンオーバーなどの関係から思いの外スムーズに関西リーグデビューを果たすことができた。当時は1回生のうちから試合に絡めたし4回生の頃には良い番号付けてチームの中心として活躍できるだろなって薄っすら考えていた。ただ、現実はそう甘くなく結果を残すこともないまま1年目が終わり、気付くとキツさから目を逸らし、無意識のうちに志の低い先輩たちと自らから絡むようになっており、この時には高校時代の悔しさなどほとんど覚えていなかった。
そのままズルズルと2年目に入り、なんとなく毎日を過ごしていた。しかし、天皇杯出場を機にもう一度本気で頑張ろうと思うことができ、大学時代で最も本気で練習に取り組めたと言える1ヶ月を過ごした。その結果天皇杯のピッチに立つことができた。残念ながら名古屋グランパスとの2回戦には出場できなかったが、久しぶりに本気でサッカーに向き合えた期間だった。しかし、天皇杯というサッカー人生においてのビッグイベントが終わってしまい、燃え尽きてしまった自分がいた。それからは、関西リーグのベンチには入るが人数合わせのような形で入り、ベンチに座りながら直属の後輩である鹿取の活躍を見ていた。だが、当時はそれでもいいと思っていた。『ベンチでもメンバー入れれば良いか、Twitter載れるし。今週はどんなポーズしようかな。』などと考えながらベンチに入っていた。Aサテ戦ではお馴染みのメンバーと『頑張って乗り越えようぜ』とか言いながら、サッカーをやっているというよりもやらされている期間を過ごした。そしてこのまま2年目が終わった。
3年目の新シーズンが始まり、成人式前にカテゴリー表が送られてきた。Bチームの欄の1番上に自分の名前があった。まぁ落ちて当然だなと思った反面、なんだかんだでAに残るかなと思っていた自分もいた。でも、なぜかBチームの練習の方が前向きに、意識高く練習に取り組めた。最初の方はちかさん(監督)にしごかれた。面と向かっては言えないけどその当時ばかりは、否定ばっかしてくるちかさんのことを日本語を話す外国人だと思って過ごしていた。そうしたらなんにも気にならなくなり、思うようにプレーすることができた。でもいつからかちかさんとは親友のようになり(沖縄遠征ではマイクロの助手席で朝7時から1時間語り合うくらいの仲)、Iリーグが始まる頃にはスタメンに定着し、結果としてIリーグは全試合スタメンで試合に出ることができた。Bチームのメンツも最高だった。こんなにサッカーも遊びも充実して幸せと思えるシーズンがあるのか、大学サッカーって最高だなと思えた。そして同じモチベーションの仲間と試合に出続けることが自分自身にとって幸せや充実に繋がるということをこの3年目で知った。
そして迎えた最蹴章。
ちかさんがAチームの監督になり、Aチームに引っ張ってもらい、4回でもう一度関西リーグで活躍するチャンスを貰えた。しかし、チームの中心として活躍することはできず、ベンチに入り途中出場をするか、たまにスタメンで出るか。その程度だった。でもスタメンで出られなくても、毎日の練習に前向きに取り組み、Aチームの勝利のために頑張ろうと思っていた。だからAサテで過ごす時間が長い中でも前向きに練習に取り組み、Aサテで共に過ごす期間が長かった02世代奈良県最高傑作"梅影駿輔"とチームのためにサッカーがしやすい環境作りを心がけた。しかし、チームは敗戦が続き、サッカーに対してモチベーションがなかなか上がらなくなっていた時期にミーティングがあり、色々あってAチームを去ることになった。(ここについて聞きたい人は個人的に連絡ください。居酒屋4軒回れるくらい濃い話できます。)
そして結果としてはAを去ることになったが、サッカーは本気で頑張りたいし、何よりもちかさんと一緒にサッカーがしたい、何か恩を返したいと思った。というわがままな気持ちを正直に梅影とちかさんに伝えたところCチームでもう一度ちかさんに見てもらえることになった。正直マジで嬉しかったし、ラスト全力でやり切ろうって思えた。しかし、Cチームのみんなからしたら急にAチームから落ちてきた訳のわからない4回生だし、ポジションを奪われてしまう可能性もあるし、最初は受け入れてくれるか心配だった。でも同期のみんなが快く受け入れてくれて試合にもチームの中心として絡めるようになり、すごく充実した毎日を送ることができた。そして結局Iリーグでは予選を突破することができなかったが、サッカー人生を締めくくる最後の試合で前期『相手4回ばっかだから俺らの方が走れるぞ』って言われた近大に自分が決勝点を決めて勝つことができた。自分が点決めて応援してくれてたみんながピッチの中に入ってきて一緒になって喜んでくれて、間違いなく人生で1番幸せな瞬間だった。なんだかんだで苦しかったり辛かったり、悔しかったりした経験が報われたのかなと思った。
大学サッカーを振り返って、入部当初に掲げた目標は結果としてはAチームで果たすことはできなかったが、Cチームで果たすことができた。もちろんAチームで目標を果たすことが望ましかったと思うけど、おそらくあのままAに残ればこの目標は達成できなかった気がするし、目標を達成できるほどの覚悟と実力が自分には足りてなかった。でもあの時期にサッカー人生において大きな決断をしたが、その決断を結果的に正解に結び付けられた自分を誇りに思う。
あと、AチームからCチームに落ちた時に何度か『選択と後悔』という足がクソでかい同期の書いたブログを読んでいた。内容が本当に刺さる、当時の自分にドンピシャなブログだった。他の同期が書いたわけわからん『ボランチの魅力』とかいうブログとは比べものにならないほどだった。今思うと自分は最終的に、選択を満足できる結果に導くための行動ができたのかなと思う。これは人生においてものすごく大切なことなんだなと22歳にして実感した。お前いいこと言うやん小山。足デカいだけじゃなかったんやな。
自分はサッカーを通して様々なことを学ぶことができた。その中で自分のような意志の弱い人間には環境は非常に大切だと感じた。これは自分だけでなく、当てはまる人は他にもたくさんいると思う。だからこそどの環境に身を置くか、その環境を選ぶ決断に責任を取れるか。これらはサッカーだけでなく人生においても重要なことだと思う。そのため、社会人になりこれから17年間のサッカー人生以上に多くのことを経験すると思うが、自分自身の決断に責任を持ち、日々成長していけるような人生を送りたい。
最後に、ここまで自分のサッカー人生に関わり、多くの影響を与えてくれた指導者の方、仲間たち本当にありがとう。そして、これまで小さい頃からずっと自分の選択を尊重し、好き勝手やらせてくれた両親。本当に感謝しています。ありがとう。これからはサッカーもなくなったしいっぱい家族旅行でも行こう。もちろんお金は持っていきませんが。まぁ冗談だけどほんとにたくさん行きましょう。結構家族愛強い方なので。
あ、同期のみんなもいっぱい誘ってね。旅行じゃなくても飲みでもなんでもいいし。
お誘い待ってます。
長く拙くまとまりのない文章でしたが読んでいただきありがとうございました。
"サッカー最高"