こんにちは。


先日、主力であるにもかかわらず第5中足骨を骨折した為チームに大迷惑をかけたあげく、突然の引退を迎えた同志社大学体育会サッカー部4回の村上寛和です。この度、自身を発信する貴重な機会を頂いたので、16年間のサッカー人生の振り返りと共に今感じていることを素直に言語化して綴らせて頂きます。まとまりのない文章ですが、時間の許す限り読んで頂ければ幸いです。

 

 

 

 

クソがつくほどのサッカーバカだったと思う。

そしてクソがつくほど負けず嫌いだったと思う。

 

 

別にプロサッカー選手を目指していたわけではなかった。小学校1年生になる頃、両親曰く日韓ワールドカップをテレビで見て「これやりたい!」と言ったらしい。それがサッカー人生のスタートだった。

地元の少年団に入団したものの、周りは幼稚園からサッカーをやっていた子たちばかりで差は歴然だった。人生初の挫折。悔しくて、家に帰ってすぐ買ってもらった真新しいボールをもって近所の公園に向かい、とにかく蹴った。誰にも負けたくない一心で蹴り続けた。あっという間にボールはパンクし、親を困らせた。

休日には父が一緒にボールを蹴ってくれた。父はサッカーをしたことがなかった。しかし納得のいくまで練習に付き合ってくれた。父は公園でパスの練習をする際、必ず右足で蹴った後は左足で蹴るように言っていた。後々聞かされたのだが、サッカー選手は両足蹴れないとだめだと思っていたらしい。まあ間違ってはないが、無知が生んだ奇跡だ。

私が右利きでありながら左足のほうが正確に蹴れる理由がこれである。

 

 

サッカーは自分の全てを表現するもの。そんな気がしていた。努力すればするほど上手くなる。ボールを蹴る毎日が楽しかった。いつの間にかサッカーが人生の相棒となっていた。


時は過ぎ、高校2年生の時に選手権で全国優勝を経験した。

正直言って夢でしかなかった。目標にするには現実的ではなく、どうしても道筋が見えてこなかった気がする。しかし現実的ではない分、1日1日を無駄にしないようにと思った。年を重ねるだけ上手くいかないことが増えていき、悩み、壁にぶち当たることも多くなった。人との競争も増えた。そんな時は必ずいつもの公園に行って、納得がいくまで練習をした。

誰にも好きなことで負けたくなかったからこそ、これでもかというくらい自分と向き合った。

 

 

大学では大きな挫折を経験した。

1、2回の頃は全く試合に絡むことが出来なかった。大好きなサッカーが好きではなくなった。理想と現実の差は受け入れ難いものだった。

それでも這い上がった。莫大なお金をかけ京都に送り出してくれた両親に結果で感謝を体現しようと思った。そしてなにより好きなことで誰にも負けたくなかった。とにかく上に行くために必死だった。

徐々に出場する機会も増え、最高学年になった。同時にラストシーズン。必ず後悔のないようにすると誓っていた。

 


 

 

 

私は、攻撃ではなく守備が好きだった。もちろんFWで得点を決めてヒーローになるのもいいと思うけど、相手の決定機を自分が阻止した時、スライディングをして止めた時、そのあと、チームメイトが駆け寄ってきてくれる時がたまらなく好きだったから。決して目立たないけど、チームに必要な存在。プロで言えば、今野のような「最高の黒子」が一番かっこいいし、理想だった。


そんな理想にどれだけ近づけていたかはわからない。むしろあまり勝てていないチームに貢献していたとは言い難いかもしれない。それでもチームの為に、勝利の為に足を延ばし続けること。それが最高学年である私の責任だと思っていた。

 

しかし怪我をした。しかもリーグ戦終盤の大事な時期に。悔いが残らないようにと言ったはずが、目標は達成できなかった。

いきなり訪れてしまったサッカー人生の終焉。ださすぎる。

言葉が見つからないくらい悔しいし、不甲斐ないし、何よりチームに申し訳ない。

もうみんなとピッチの上で一緒に戦うことはできない。全てをかけて戦ってきた大切な仲間と喜びも悲しみも分かち合うことができない。

考えれば考えるほど、空しくなる。

けど逃れられない事実。

 

 

この言葉にできない思いを、空しい叫びを試合に出る人は受け取ってほしい。

その答えを、残りの試合で私に、そして試合に出たくても出ることが出来ないたくさんの仲間に見せつけてほしい。

同志社大学体育会サッカー部全員が納得のいく試合をして終わろう。

 

 

 

 

みんなならできる。託します。

 

 

                                 4回生 村上寛和