オシムの言葉(木村元彦) | 道玄坂で働くベンチャー課長だったひと

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Il n'est qu'un luxe veritable, et c'est celui des relations humaines.
Saint-Exupery(真の贅沢というものは、ただ一つしかない。それは人間関係の贅沢だ。
サン=テグジュペリ)
 

「そんなに走りたければ、銃を持ってボスニアへ行ってこい」 
 
懇願してきた控えの選手に、オシムが返した。
 
オシムは、1941年ボスニアの首都、サラエボ生まれ。
 
学業も優秀で、特に数学に秀でており、
サラエボ大学から大学院に進んで、
数学の教授にならないかと誘いがあったほど。
 
結局、貧しい家族を助けるため、
いち早くお金を稼げるサッカーの道を選び、
当初は、大学に通いながらチームでプレイ。 
 
その後、フランスのチームに所属し、
現役12年間で85得点、特筆すべきは、
イエローカードを1枚も提示されなかったこと。
 
引退後、ユーゴに戻り、クラブチームの監督に、
86年代表監督に就任し、90年にはW杯イタリア大会で、
ストイコビッチらとともにベスト8入り。
  
ユーゴは別名、「モザイク国家」といわれ、
5つの民族、4つの言語、3つの宗教、ふたつの文字を持つ。
 
ユーゴのサッカースタイルをある編集長は語る。
 
「世界のサッカーの中で、一番スペクタクルなのは、
 ブラジルの選手ではない。それは、だれもがそれの大家であり、
 ボールや彼らの肉体、チームの不均衡の中でも、
 信じがたいほどたくみに生きることができる、
 ユーゴスラビアの選手たちだ」

ユーゴの選手は、球技に格段の才能を発揮し、
バスケットボール、ハンドボール、テニス、水球も、
世界トップクラス。 
 
サッカーの代表監督は、どの国であっても常に非難の的。
 
「そんなものに耐えられないならば、
 代表監督などにならぬほうがいい」
 
そんな代表監督の最中、サラエボ包囲戦が開始し、  
包囲戦での死者は約1万2千人を数え、
サラエボ五輪で使用された屋外競技場は、
遺体を埋葬する場所がなくなったとの理由により、
一面、白い墓標で埋め尽くされました。
 
旧ユーゴは、スロベニア、クロアチア、ボスニア、
セルビア、マケドニア、モンテネグロ、ボイボディナより構成され、

旧ユーゴで「最高の監督は?」との問いに、
誰もが、オシムの名を上げ、混乱したユーゴサッカーにおいて、

オシムは「民族融和」の象徴だったのです。
  
オシムのスタイルは、「走る」サッカー、
ジェフ市原の羽生は語る。
 
とにかく最初の1年は運動量を、2年目は走ることの意味を、
3年目はもっと技術面やゴール前での崩しなどを教えられたと。
 
そして、オシムはすべての選手の心理状態をつぶさに分析し、
ユーゴ代表監督時代は、選手がどういう思想を持ち、
何を考え、何を望むかをしるために、
各地の異なるメンタリティーを観察し、把握していました。
 
川口能活は、
 
「監督は先発を発表するときに出せない選手に必ず謝るんです。
 本当は全部出したいんだ、と。すごく僕たちを大切に
 考えてくれる。何より選手をみるときに、すごくいい表情をされるんです。」
  
オシム自身、人生を振り返って、
 
「私の人生そのものがリスクを冒すスタイルだったんです。
 プロとしてプレーする時も、最初は大学で数学を専攻していて、
 数学の教授にもなれたし医学の道にも行けた。
 でも、自分がサッカー選手として、この先やっていけるかどうか
 分からない状態でも、私はリスクを背負ってサッカーの
 世界へと飛び込んだ。だから、最初から、私はサッカー人として、
 リスクを背負っている。」 
 
オシムにおけるサッカーとは、
試合における展開が変化に富むように、
ユーゴという歴史の奔流にもまれながら、なお、信念を貫きました。
 
彼が病床に倒れたことは、残念至極でありますが、
誠に惜しむべき人であります。
 
「球体が 世界を描く 地球号」 シチョウアタリ
 

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