「混乱」している状態というのは、普通、不安定で、不愉快で、決して心地よいものではない。
英語を教えていると、生徒が「混乱」した状態になっているのをよく見る。
「混乱」した状態になるのは、ある程度先まで学習が進んでいる生徒に多い。
少し前までは文法をよく理解出来たり、発音もスムーズに出来たりしていた生徒が、突然、「混乱」した状態になるのだ。
当然、本人は苦しいし、辛いし、イライラするし、凹む。
だが、「混乱した状態」というのは、実は、より高いレベルへ進むための前兆とも言える。
イモムシがチョウになる前に「さなぎ」の状態になるのと同じように、劇的な成長や変化を遂げる前には、一度「混沌」とした状態になるものだ。
さなぎの内部を覗いてみると、一部の神経細胞を除いて、ほとんど形のないドロドロの状態になっているという。
ところがこの後、このドロドロの状態からはとても想像もつかないような美しいチョウに変わるのだ。
自分が何かをやっていて、混乱していて、混沌としていて、苦しくて、辛い時は、きっと劇的な成長や変化を遂げる前なのだろう。
混乱や混沌の状態に置かれた時、人でも動物でも、あるいは自然界のどんなものでも、「秩序に戻ろう」というエネルギーが生まれるのだと思う。
混沌とした状態は、普通、好ましいものではない。
だから、たいてい人はその状態から逃げ出したくなる。
しかしその状況を受け入れ、「秩序に戻る」と信じ、もがくことを覚悟した時に、その人の中に、それまではなかったエネルギーが生まれる。
大地震などの災害によって壊れた家や街は、それをきれいな状態に戻そうとする人達のエネルギーによって修復される。
そして修復された家や街は、災害が発生する前よりもきれいな状態になる。
もつれた人間関係も、仕事上のトラブルも、勉強や趣味のスランプも、「きっと元に戻る」と信じることさえできればエネルギーが生まれる。
そして、一旦秩序の状態に戻れば、混沌や混乱が生じる前よりも高いレベルの秩序になっているはずだ。
秩序に戻ると信じているうちはエネルギーは持続する。
エネルギーが尽きるのは、すっかり秩序に戻った時か、あるいは秩序に戻ることが出来ると信じられなくなった時、つまり「諦めた時」だ。
そりゃあ、時には「逃げ出す」を選択した方が賢明の場合もあるだろう。
しかし、「混沌」や「混乱」をチャンスと捉え、より高いレベルの「秩序」に向かうためのエネルギーに変えようと考えてみるのも一つの手ではないだろうか。
人の成長には「自然な成長」と「異常な成長」の2種類があるように思う。
「自然な成長」というのは、本人の意識がなく、苦痛も苦労も伴わない、文字通り「自然」な成長だ。
成長期に背が伸びたり、歯や髪の毛が生えてきたり、というものだ。
あるいは、毎日同じことを無理なく繰り返していけば、だんだんと無意識に、より上手にやれるようになる。
これも「自然な成長」と言える。
「自然な成長」は、いつも周りにいるような人にはなかなか気づいてもらえない。
周りの人どころか、本人だって自分が成長していることをなかなか認識できない。
しかし、久しぶりに会った人には気づいてもらえる。
「自然な成長」は緩やかだから、ある程度時間が経ってから見ないと「成長ぶり」が分かりにくいのだ。
ところが、稀に、誰の目にも明らかに「急激に成長した!」と分かるケースがある。
それは「自然な成長」ではない。
言うなれば「異常な成長」だ。
本人にとって当たり前のこと、自然なこと、苦痛や負荷のないことを続けていれば、「自然な成長」へとつながる。
逆に、本人にとって「当たり前でないこと」「自然でないこと」「苦痛や負荷のあること」を続ければ、それは急激な成長、つまりは「異常な成長」につながる。
「異常な成長」は他人を驚かせる。
また、本人も「成長しているぞ!」と認識しやすい。
このことが、更なるエネルギーとなり、その人を突き動かす。
しかし、端から見て「絶好調」に見える成長ぶりも、やはり「異常なこと」をしているわけだから、本人にとって決して楽ではない。
教師から見て生徒が急成長を見せている時は、たいていその生徒を誉めたくなる。
しかし、成長が早い時ほど本人の負荷が大きいということを見逃してはいけない。
また、辛い負荷が続いても、成長ぶりがなかなか表面化しないで、本人がただ苦しんでいることもある。
しかし、「普通ではないこと」をしているのならば、必ずそれは「成長」につながるはずだ。
辛い時は上り坂を登っている時だ。
坂の上には、「当たり前で自然なこと」をしていては決して見ることができない景色が待っている。
アメリカに留学していた頃の私もそうだった。
なかなか成長していかない自分にイライラしていた。
毎日がただ辛かった。
思ったことを英語で伝えなくてはならないのに伝わらない。
もっと上手く言いたいのに言えない。
押し込められた世界で、私はただ苦しんでいた。
しかし、それは、今にして思えば、急で長い坂を登っていたのだろう。
一つの坂を登りつめたことがあれば、また次の坂も登れるのだろう。
だから、今これを読んで、今の自分にイライラしたり、ただ苦しんでいると思っている人がいたら、それは「上り坂の途中」にいると思って自分の成長を信じて欲しい。
「異常な成長」は、きっと周囲も気づいてくれる。そして、自分でもきっと気づけるだろう。
「自然な成長」というのは、本人の意識がなく、苦痛も苦労も伴わない、文字通り「自然」な成長だ。
成長期に背が伸びたり、歯や髪の毛が生えてきたり、というものだ。
あるいは、毎日同じことを無理なく繰り返していけば、だんだんと無意識に、より上手にやれるようになる。
これも「自然な成長」と言える。
「自然な成長」は、いつも周りにいるような人にはなかなか気づいてもらえない。
周りの人どころか、本人だって自分が成長していることをなかなか認識できない。
しかし、久しぶりに会った人には気づいてもらえる。
「自然な成長」は緩やかだから、ある程度時間が経ってから見ないと「成長ぶり」が分かりにくいのだ。
ところが、稀に、誰の目にも明らかに「急激に成長した!」と分かるケースがある。
それは「自然な成長」ではない。
言うなれば「異常な成長」だ。
本人にとって当たり前のこと、自然なこと、苦痛や負荷のないことを続けていれば、「自然な成長」へとつながる。
逆に、本人にとって「当たり前でないこと」「自然でないこと」「苦痛や負荷のあること」を続ければ、それは急激な成長、つまりは「異常な成長」につながる。
「異常な成長」は他人を驚かせる。
また、本人も「成長しているぞ!」と認識しやすい。
このことが、更なるエネルギーとなり、その人を突き動かす。
しかし、端から見て「絶好調」に見える成長ぶりも、やはり「異常なこと」をしているわけだから、本人にとって決して楽ではない。
教師から見て生徒が急成長を見せている時は、たいていその生徒を誉めたくなる。
しかし、成長が早い時ほど本人の負荷が大きいということを見逃してはいけない。
また、辛い負荷が続いても、成長ぶりがなかなか表面化しないで、本人がただ苦しんでいることもある。
しかし、「普通ではないこと」をしているのならば、必ずそれは「成長」につながるはずだ。
辛い時は上り坂を登っている時だ。
坂の上には、「当たり前で自然なこと」をしていては決して見ることができない景色が待っている。
アメリカに留学していた頃の私もそうだった。
なかなか成長していかない自分にイライラしていた。
毎日がただ辛かった。
思ったことを英語で伝えなくてはならないのに伝わらない。
もっと上手く言いたいのに言えない。
押し込められた世界で、私はただ苦しんでいた。
しかし、それは、今にして思えば、急で長い坂を登っていたのだろう。
一つの坂を登りつめたことがあれば、また次の坂も登れるのだろう。
だから、今これを読んで、今の自分にイライラしたり、ただ苦しんでいると思っている人がいたら、それは「上り坂の途中」にいると思って自分の成長を信じて欲しい。
「異常な成長」は、きっと周囲も気づいてくれる。そして、自分でもきっと気づけるだろう。
最近、というかこの何年かの間に、いつの間にか店の会計時などに、
「1000円からお預かりします」
という言い方が当たり前に使われるようになった気がする。
最初これを聞いた時は、「から」という言い方にかなりの違和感を覚えた。
「から」は要らないだろうし、どういう意味でこの言い方が使われるようになったのかいまだによく分からない。
最初は違和感があったものの、こうもあちこちで耳にするようになると、もはやそういう言い方が当たり前のような気がしてきてしまう。
たまに自分でも「1000円からで」とか言ってしまうこともあるが、たいてい言ってから「あ~、“から”って言っちゃった」と反省する。
英語を教えているからだろうか、自分が話す日本語が正しいか気になってしまうのだ。
しかし、言葉というものは時代と共に変化するものだ。
今では誰もが当たり前のように使うような表現を、いつまでも「それは正しい日本語ではない」と頑固に譲らないのも私は賛成しない。
英語も同じだ。
例えば、関係副詞の「how」は元々先行詞が「the way」の場合に使われていたものだ。
しかし今では「the way how」とは並べず、「the way」のみか、あるいは「how」のみか、どちらか一方のみで表現するのが「正式な言い方」とされている。
おそらく、かつては「the way how」が正式だったものが、時代の流れで変化したものなのだろう。
ある時、権威のある辞書や文法書が「この表現が正しい」と言い出せば、右に習えで一般の辞書や文法書も同じようにそれが正しいと認めるようになる。
日本語では、例えば「来る」に「可能」の意味の「られる」を付けると、正式には「来られる」だが、実際には「来れる」と言う人は多い。
これを「ら抜き言葉はけしからん」と言う人もいるが、もはや普通に使われている言葉に対して、必要以上に目くじらを立てることもないと思う。
ちなみに三省堂の国語辞典では、「来れる」を正式な表現として載せている。
そういう意味では「広辞苑」はかなり柔軟に新しい語を取り入れているようだ。
最新版ではどうなっているか知らないが、そういう「現代語」の中に私がいつも気になっている言葉がある。
それは「チンする」だ。
意味は「電子レンジで温める」というものだが、おそらくどこの家庭でも「チンする」で通じるだろう。
最新版の広辞苑には「チンする」は載っているだろうか。気になる。
先日NHKの料理番組でも「チンする」という表現が使われていたのにはさすがに驚いたが、この表現が一般の辞書に正式に載る日もそう遠くないかもしれない。
しかし「1000円からお預かりします」はあまり正式な表現として認めてほしくないけどね。
「1000円からお預かりします」
という言い方が当たり前に使われるようになった気がする。
最初これを聞いた時は、「から」という言い方にかなりの違和感を覚えた。
「から」は要らないだろうし、どういう意味でこの言い方が使われるようになったのかいまだによく分からない。
最初は違和感があったものの、こうもあちこちで耳にするようになると、もはやそういう言い方が当たり前のような気がしてきてしまう。
たまに自分でも「1000円からで」とか言ってしまうこともあるが、たいてい言ってから「あ~、“から”って言っちゃった」と反省する。
英語を教えているからだろうか、自分が話す日本語が正しいか気になってしまうのだ。
しかし、言葉というものは時代と共に変化するものだ。
今では誰もが当たり前のように使うような表現を、いつまでも「それは正しい日本語ではない」と頑固に譲らないのも私は賛成しない。
英語も同じだ。
例えば、関係副詞の「how」は元々先行詞が「the way」の場合に使われていたものだ。
しかし今では「the way how」とは並べず、「the way」のみか、あるいは「how」のみか、どちらか一方のみで表現するのが「正式な言い方」とされている。
おそらく、かつては「the way how」が正式だったものが、時代の流れで変化したものなのだろう。
ある時、権威のある辞書や文法書が「この表現が正しい」と言い出せば、右に習えで一般の辞書や文法書も同じようにそれが正しいと認めるようになる。
日本語では、例えば「来る」に「可能」の意味の「られる」を付けると、正式には「来られる」だが、実際には「来れる」と言う人は多い。
これを「ら抜き言葉はけしからん」と言う人もいるが、もはや普通に使われている言葉に対して、必要以上に目くじらを立てることもないと思う。
ちなみに三省堂の国語辞典では、「来れる」を正式な表現として載せている。
そういう意味では「広辞苑」はかなり柔軟に新しい語を取り入れているようだ。
最新版ではどうなっているか知らないが、そういう「現代語」の中に私がいつも気になっている言葉がある。
それは「チンする」だ。
意味は「電子レンジで温める」というものだが、おそらくどこの家庭でも「チンする」で通じるだろう。
最新版の広辞苑には「チンする」は載っているだろうか。気になる。
先日NHKの料理番組でも「チンする」という表現が使われていたのにはさすがに驚いたが、この表現が一般の辞書に正式に載る日もそう遠くないかもしれない。
しかし「1000円からお預かりします」はあまり正式な表現として認めてほしくないけどね。