〈さらに前回の続き〉
今日、高校で物理を教えている私の知り合いに「人に分からせる」という意識があるかどうか尋ねてみた。
すると彼は、次のように語ってくれた。
「高校生には『分からせる』という意識では教えていない。物理を本当に理解しなくても、物理の面白さは感じられるし、もっと言うと問題を解くこともできる。だから分からせられなくても良いと思う。そりゃあ、分かってもらえたらいいとは思うけど。」
「ただし、大学の学部レベルや大学院レベルになると、ちゃんと物理を分からせなければならない。ちゃんと物理を理解していないやつが橋を作って、それが落っこちるなんてことがあってはならないからね。」
なるほど、と思った。
実践が伴うものと、そうでないものでは、教える側も教わる側も、意識の程度が違ってくるのは当たり前だろう。
「分からせる」というのは、とどのつまり、教師のエゴだとは思う。だけど、それくらいの真剣さを持って指導する気持ちは忘れてはならないとも思うのだ。
「成長させる」もそうだ。
どんなに英語が苦手だという人を相手にしても、「絶対できるようにさせるぞ!」という意気込みは、程度の問題はあれども、必要なんだと思う。