一昨日12日は、中秋の名月でした。昨日も十六夜の月。天候の加減で、満足に見えない年も多いのですが、今年は二日とも本当に美しい満月を見ることができました。太陽の光を受けて、反射で光っているはずが、まるでやさしい光を自分で放っているような明るい月でした。


 月は昔から、日本人の心に様々な思いを抱かせてきました。平安時代の貴族たちは月を愛でるために池に船を浮かべたり、笛を吹いたりして季節を楽しんだようですね。月を歌った童謡も多く、こちらはどちらかというと寂しい歌が多いですが。そして、宗教、信仰の世界にも月はいろいろな形で登場します。


 曹洞宗の御詠歌の中に、お釈迦さまが亡くなった時のことを歌う御詠歌があります。「不滅」という副題を持つこの御詠歌は次のように歌っています。


 ひとたびは 涅槃の雲に 入りぬとも 月はまどかに 世を照らすなり 世を照らすなり


 お釈迦様の体は、涅槃に入られた(亡くなられた)けれども、その教えは、ずっとこれから先も、世の中を照らし続けてけているのです、という意味です。お釈迦様の教えを月にたとえています。確かに、世の中をあまねく、分け隔てなく、慈悲深く照らし続けるのに太陽は今一つ似合いませんね。


 私の寺は曹洞宗なので、浄土宗、浄土真宗系の阿弥陀様を信仰する教えは、さほど勉強していないこともあり、今一つ分からないでいます。でも最近、その教えの端っこが少しわかった気がしました。中日新聞に連載されている五木寛之の小説「親鸞」を読んでいた時のことです。


 罪人としての罪を許され、関東地方へ布教に行った先で、民衆に語りかける場面です。人々は親鸞に様々な質問をします。「南無阿弥陀仏と唱えたら、病気が治るのか?」「金持ちになれるのか?」「悪いことをしても許されるのか?」「亭主の浮気が止むのか?」しかし親鸞はそのすべての質問に、首を横に振ります。そして、実際に自分にあった出来事を話して聞かせます。


 重い荷物を背に負って、真っ暗な夜道を、あるところを目指して歩いていた。足は疲れ、背の荷は重い、道は暗闇でよく見えない。ほとんど絶望の中を疲れた足を引きずってとぼとぼと歩いていた。その時、雲間から月が出て、あたりを照らしてくれた。すると、不思議なことに、自分の足取りが軽くなった。荷の重さは同じなのに、荷が軽くなったような気がした。目的地までの距離も同じなのに、近くなったように思えた。


 月の光は阿弥陀様の光ということでしょう。阿弥陀様が足元を照らしてくれたのです。なるほどと私は思いました。南無阿弥陀仏と唱えることによって、夜道ならずとも、いつでも自分の足元を照らしてもらえるということでしょうか。


 今は、月が出ていなくても、街灯や、街ならネオンサインもあって、迷わずどこにでもいけます。しかしそんなものがなかった昔は、月の光は本当にありがたく、おもわず手を合わせたくなるものだったと思います。そんな様々なことを考えさせられるほど美しかった今年の満月でした。