今日は、子供たちの靴を買ったり、上の子の今度のバースデーのプレゼントを階に行ったりと、意外と外に出かけました。
昨年の3月11日には、やっぱりお祝いにアイスクリームを買いに出かけている途中で震災に遭い、渋滞を避けたお蔭で津波を免れた命だったりするのです。
さて、今日より昨日の方が出かけたくなかった。
今年はうるう年で1年多い。
実際に365日を過ぎたと考えれば、昨日がその日に当たるわけで、出かけたくなかったのでした。
今日は出先の車の中、ちょうど駐車場で2時46分を迎え、山下達郎のラジオの番組中でしたが1分間の鐘が鳴り黙祷の時間となりました。
震災で思い出すのは、停電の避難先の小学校の窓から見た、近くの発電所のコンビナートの燃える火と、石巻や遠くは気仙沼の火までが見える中、2日間を過ごしたこと。
お世話になった、パートナーのお義父さんの雪深い会津の実家。
後は、何もできずに毎日のように、涙を流しながら眠りについた事くらいしか思い出しません。
パートナーのお義父さんの実家には、大伯父さんが住んでいて、癌を患っています。
何だか今日ふと思いました。
数年後に、どちらの両親も自分もパートナーも歳をとり、色々な縁が切れていくと、あの時お世話になったことも、子供たちの心の中から消えていたり、自分のおじいさんの実家なんてものに関心を示さなくなり、全く縁の無い土地になったりするのだろうか?
先日、キャリアカウンセラーのスクーリングで、いろいろな土地に住んだことがあると言う人がいて、金沢文庫の話をしたときに、「大叔母の家が在って何度か訪ねたことがある。」ということを話したことを思い出した。
遠い親戚に当たる大叔母の子供は、テニスのコーチを生業とし、キャビンアテンダントの奥さんをもらった。
そして、子供に授かることなく離婚して、その先は知らない。
決して大きくないけれど、素敵な街の大叔母の家も、母に連れられて行くと楽しかった。
ずっと昔、浦和の「あの山のふもとまで」と見渡す限りの敷地を所有していた家に生まれた母方の祖母。写真の後ろの遠い山までが自分の一家の土地だったそうだ。
立派な家系に生まれた母。
ずっと昔、白隠和尚の弟子の禅寺に二男として生まれた祖父。
恵まれずに育った祖父と父。
戦後の民主化で、そんな育ちの差などを気にしなくなり始めた時代に育って、出会って、結婚し、生まれた私。
けれど、どんどんそんな事も薄れてしまって、私の子供たちは「家は貧乏だから」という言葉に洗脳されて、それでも割と贅沢に育てられた。(特に食べ物に関しては・・・。舌肥え過ぎだね^^:)
復職するはずだった会社を辞めて半年、いろいろな考え方に変って、今は自分で事業を始めたいと思うようになった。
薄れている筈のいろいろな縁は、実は血の中に残っていて、裕福な母方の家系は、それぞれ戦前に起業し、医者になっていたり、大学教授だったり、アルゼンチンに移住して工場を始めていたりとさまざまだったりする。
父方の親戚は・・・、よくわからない・・・。
そんなんで、血の中に「よくわからない」血とパイオニアな血が入り乱れ、現代社会を放浪する羽目になっているのじゃないかと、血のせいにしたくなったりする。
あの日から1年で、大きく変わったことなどきっとない。
けれど、少しずつ変わってきている人もいて、なんとかそんな人たちとのつながりを大事にしながら、いつか理想的な社会とコミュニティの中で、家系に詳しい叔父や、同じく姉と、私よりも私の家系に詳しいパートナーに聞いたことをまとめながら、昨年の今日の事をまとめられる日が来るといいと思う。
今日まで1年間、生きてこれた事に感謝。
新しい出会いに感謝。
そして、遠い国から情報を沢山くれた人にも感謝。
綿々と流れてきた時間と、この先流れていく時間の中で、今があることに感謝。