1985/7/23 横須賀市総合体育館 仲前芽久美vs石黒泰子 仲前の極悪入門経緯 | 時系列でみる! 極悪同盟 ダンプ松本 ファンブログ

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極悪同盟(特にダンプ松本さん)のプロレスを時系列で整理します。思い入れのある雑誌処分のためブログに残して廃棄します。「テーマ別」で時系列で閲覧することができます。妄想で書くこともしばしばですが1年(+α)かけてやる予定です

Evito-X-PuroさんのYoutubeより

1985/7/23 横須賀市総合体育館 仲前芽久美vs石黒泰子

 

(25:00くらいから~)

 

(↓AIでフルハイビジョンに変換した動画です。試合のみ抜粋)

 

 

今回は横須賀市総合体育館で行われた仲前芽久美vs石黒泰子の試合を見ていこうと思います。

両者とも後に極悪同盟に参加します。

この試合、石黒のデビュー戦です。仲前は5/16の大宮スケートセンターでデビューしていると思われます。

 

 

志生野アナ「女子プロレスも新人たちも大量に入ってきて」

志生野アナ「いまデビュー戦が各地で行なわれていますね」

宮本「ええ、もうあのー、もう半数以上がデビューしましたからね」

志生野アナ「今日はですね、この会場で石黒泰子選手のデビュー戦が行われました」

志生野アナ「これまた新人の仲前芽久美とやったんですが」

志生野アナ「いかがですか、石黒選手の解説者・宮本さんの印象は」

 

 

 

宮本「そうですねーやはりあのー、半数以上がデビューしたと申しましたけど」

宮本「やはり出遅れたデビューですからの」

宮本「その点遅れている部分はあるんですけれども」

宮本「一生懸命やっているなというその姿がね」

宮本「非常に好感を持てましたけども」

宮本「石黒選手ももう17歳ですからね、そんなに若くはないですから」

宮本「どんどん進歩するために頑張ってほしいですね」

 

 

志生野アナ「試合をみながら新人の永堀一恵選手、新人といっても一年先輩なんですけど」

志生野アナ「『あの子はおっとりしているからな』なんて印象を漏らしていました」

志生野アナ「まぁ、いずれにいたしましても各地で新人たちの熱い戦いが展開されていくわけであります」

 

 

最後は数か月前にデビューした仲前に体固めでフォールされたようです。

 

 

仲前については女子プロレス物語IIに入門経緯がありましたので、引用してみます。

 

女子プロレス物語より

 

 

 

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仲前にダンプ惚れ込む

 

堀田は合格が決まると、ただちに入寮した。 オーディション合格組の一部がすでに寮に入り、近くの試合会場にも顔を見せていたからである。その一人が極悪同盟のダンプにいち早く認められ、プロテストを「一番星」で合格した仲前芽久美だった。
163センチ、80キロ。中学を卒業後、ストレートで合格入門を果たした同期の仲間たちに交じって、
40年生まれの仲前はこの時、19歳である。うれしさも格別だった。
 

「オーディション挑戦は二度。それも落ちたんですが、補欠入門の問い合わせがきたんです」。仲前はこの朗報に当然のように二つ返事でOKだった。
こうして女子プロレスの一員となった仲前には数奇な人生模様を浮き彫りにするドラマがあった。

 

フロントは「あの娘にはただ頑張ってほしいだけです」 (松永社長)と多くを語りたがらない。
プロテスト後、
同期の中で一番出世の形でダンプに認められ、全面的に信頼を置くダンプには過去のすべてを打ち明けているようで「あのダンプが聞いて涙を流したそうですからね」と松永社長。
 

仲前のプライベートな部分は鉄壁の団結力を誇る極悪同盟のガードに守られている。極悪のボス・ダンプは「メ グ、メグ」と仲前の愛称を呼び仲間のダレよりもかわい がっている。仲前の悲しい家庭環境に同情し、一日も早 く一人前にさせてやりたいと願う"ダンプの愛情"だろう。その仲前は、同期の中で極悪のイメージに合わないインテリで通っている。
 

高校時代に理数系が得意だった仲前は、一時、岡山大学進学を目指していた。ところが育った環境の複雑さが、 大学進学をあきらめさせた。
仲前の生き方をかえさせたのは落ち込んでいる時に見女子プロレスのテレビだった。

 

「大学へ行って薬剤師か、教員を目指してたんですが」
「テレビの女子プロレスが一瞬にして私の人生を変えた」と、当時を笑って回想する。
仲前は最初のオーディションに落ちると上京、都内でアルバイトをしながら練習生となってジム通い、女子プロレス入門への執念をみせて頑張った。
二度目のオーディションに落ちた時だった。 柳みゆき コーチ(当時はコーチを兼任し練習生の指導もしていた) は「あの子(仲前)がなぜ落ちたんだろ。私は受かると思ってたけどね」と落選を残念がっていたが、練習生の中ではかなりの技量を身に付けていたようだ。

 

その力が、入門したその年の最終シリーズに開花する。 毎年行われる新人王戦の準決勝(60年12月12日、大田区体育館)で宇野と二度の引き分け。その時、植田コミッ ショナーの判定負けの裁定に泣いたものの大器の期待を フロント陣に植え付けたのだった。
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