前回は→その③
縄文時代の祭祀場のシステムってどうなっていたと思いますか?詳しい方はご存じかもしれませんが、もう一度おさらいがてら言いますと、山の麓に居を構えている事が多いです。居を構えている土地にはサークルストーンや柱遺跡などが有るので、そこでも祭祀場、もしくは稲作のための時期を見るシステムが有ったと思います。そもそも山を利用して太陽がどこから見えるか?を利用しているので
●多くの場合、富士山の上を通るかどうかで判断している
●しかし、大鹿遺跡などでは富士山の上部がちょこっとしか見えない。そういう場合別の方向に有る連山の頂上に春分の太陽が通ったり等、研究データでは解明されている。
※つまりこういうケースの場合ご神体で有る富士山が見えることは大切なのですが、時期を測るものとしては使用できないので他の山を利用しているという事になります
山とは切っても切れない縁があったはずです。更科の里は保全されているので典型的で視覚的にも一番参考になるかもしれませんが、近くの山の頂上に立石が有り、麓はサークルストーンの町です。こういうのが縄文スタイルであろうと研究者達も言っているのです。
”姥捨て山は実は縄文遺跡の山”
私の方で再現してみました。こういう再現図が各地に豊富にないあたりも個人的には意図を感じますね。
今私が何故これをお話ししたかと申しますと、この冬至ライン①の場所には大室山があります。これはちょうど、
千居遺跡では、夏至の太陽がツインピークスの間を通ります。それとは逆に冬至の太陽が、ツインピークスの間を通るのです。
【知識がつながらない教育をしている】
まさにサブタイトルのままで、山を登る人は『遺跡だったんだろうな~』で話が終わり、遺跡を研究する人も足元の土器ばかり見ている・・・神社好きはレイラインばっかり見ている。そうすると問題が解けない。それが封印って事。私がこれからお話しする事を言えばそんな簡単な事って思うようになるはずですが、それすらも誰も気が付かなかったという事は封印が鬼の様に効いていたという事です。まず以下をご覧になって見て下さい。
TBSニュースの一部より引用:詳しい事は実際のサイトへどうぞ→TBS様
この地図と私がグーグルで検索した右の地図と見比べて下さい
赤いポインターの場所って大室山です。つまり・・・・・
配置的にどう見てもこのスタイルである!
って事は分かるかと思います。
【冬至の太陽の見える祭祀場】
山に登って富士山に向かって祈れば冬至の太陽が見えるという訳です。
しかし、残念ながら大室山に立石が本当に有ったとしても、貞観噴火の際に大室山が導火線になったのですから、立石が有ったとしても溶岩に飲み込まれたことでしょう。何故なら溶岩の吹き出し口に立石は有ったでしょうから。
しかしです・・・・
このスタイルが残っている場所が実はあったんです。
次回【誰も気が付いていない祭祀場と破壊された太陽石】です
つづく