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※とある島の伝説より引用編集

神功皇后は、ヤマトタケルノミコトの次男「仲哀天皇」(ちゅうあいてんのう)と結婚します。
※つまりヤマトタケルノミコトの弟と結婚しているんです(*^^)v

 

仲哀天皇は、神功皇后と一緒に、九州南部に住み、朝廷に反抗していた豪族、熊襲を討つために、大和から九州の筑紫にやって来ました。

 

筑紫の香椎(かしい)の宮で、天皇が、神様を呼ぶために、琴を弾きました。
その時、武内宿祢(たけうちのすくね)が、庭にいて、神がかりをした神功皇后から神の託宣がありました。


 神は、「土地が荒れている熊襲を襲って、従わせるより、西の方に、金銀や宝物のたくさんある新羅という国があるが、その国をあなたに授けよう」と言いました。 しかし、仲哀天皇は、「高い所に登って西の方を見ても海ばかりだ。」と言って、神の言葉を信じようとせず、琴を弾かずに黙っていました。


これを見ていた神は、怒って、「この国は、あなたの治むべき国ではない」と言いました。

※つまり御神託を無視してW神様を怒らしたのです。

 

 これを聞いた武内宿祢が、仲哀天皇に、「恐れ多いことです。さあ、そのお琴をお弾きになってください。」と、申し上げました。
 そこで、天皇も琴を引き寄せて、しぶしぶ、少しばかり弾きましたが、まもなくして琴の音が聞こえなくなりました。

※天罰でしょうか・・・・頑固に信じなかった為に死んでしまったような気も・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこで、火をともしてみると、天皇は、すでに亡くなっておりました。

52歳でした。

神功皇后は、福岡に香椎宮を建てて、仲哀天皇をまつりました

 

そして・・・・旦那亡き後・・・・

益々彼女の豪胆さが増して?行くんです。

彼女はアマゾネスの中のアマゾネスという感じでした。

 

次にお話しする事は前述の中で、だから韓国系等の人々に凄く嫌われる理由になって居ると思うのです。

 

ただ・・・・例えそうでも真実は真実。

管理する人の都合で変えないで貰いたいものですね(*^^)v

韓征伐(三韓征伐)

新羅(しらぎ)征服

 

 神功皇后が、天皇の葬儀をすまた後、もう一度、武内宿祢(たけうちのすくね)が神の宣託を聴きました。
 神は、「新羅の国は、皇后の胎内にいる御子が治むべき国だ」と告げました。

武内宿祢(たけうちのすくね)は、「そのような宣託をした神様は、何という神様ですか。」と聞きました

神は、「私は、天照大神(あまてらすおおみかみ)である。そして、私の宣託を伝えた神は、上筒男命
(うわつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、下筒男命(そこつつおのみこと)
である。

西の国に渡るなら、天地の神、山の神、海河の神と、私
(天照大神)
の魂を船の上に祭り、木の灰をかごに入れて、箸と皿をたくさん作り、それらを全部、海の上に散らし、浮かべて渡るがよい。」と、言われました。

神功皇后は、神の教えたとおりに、軍隊を整え、多くの船を浮かべて、住吉3神を、守り神として、海を渡りました。

その時、沢山の魚が、現われ出てきて、神宮皇后の船を背負って渡りました。

また、追い風が盛んに吹いて、船は波のまにまにものすごい勢いで、進みました。

神功皇后の乗った船の波が、新羅の国に押しあがって、波が国の半分を侵しました。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その様子を見ていた新羅の国王は驚き、畏れつつしんで、戦うことなく、「これから後は、命令にしたがい、毎年、多くの貢物を献上する船を送り、天地のあらんかぎりお仕えしましょう」と言いました

 

新羅が降伏したことを聞いた、百済、高句麗も、そのとき、すぐに降伏しました。

高句麗とかはこのあたりですね※ウィキペディアより引用

高句麗(こうくり、紀元前37年 - 668年。高句麗語:高句麗)は、いまの中国東北部南部から朝鮮北中部にあったツングース系民族の国家[であり、最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土とした。

 

隋、唐を始めとする中国からの侵攻を度々撃退したが、最終的には唐・新羅の遠征軍により滅ぼされた。後述の王氏高麗との区別による理由から「こうくり」と音読されるが、百済、新羅の「くだら」「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま

~引用以上~

 

はいそうなんです(*^^)vつまり中国東北部南部から朝鮮北中部も従えていたという事なのです。

この話しを聞くと・・・・そりゃあ魏志倭人伝の卑弥呼のモデルが神功天皇だとしたら・・・・・?卑しい巫女様(御神託が出来るから)という書かれ方をしても仕方ありませんよね・・・・?

 

そして、上記の新羅の国王は驚き、畏れつつしんで、戦うことなく、「これから後は、命令にしたがい、毎年、多くの貢物を献上する船を送り、天地のあらんかぎりお仕えしましょう」と言いました。

 

つまり日本はその当時ちょっとジャイアンみたいな感じだったと言う事なんです。

 

そしてその資金は非常に潤沢で有った事でしょう。

 

何故なら、日本にこれだけの古墳が大量にあるのは

(大阪だけでは有りません。余り意識させない様にされてますがWまわりを見て下さい。近所に案外古墳がボチボチ有ったります)

これだけの資金力と技術が有った事の証拠に他ならないのです。

そして、この部分・・・・

 

神は、「新羅の国は、皇后の胎内にいる御子が治むべき国だ」と告げました。

そうなのです(*^^)vその後の世は実際にそうなって来たのです。

このアマテラスの御神託・・・・。

 

実はとても不思議な妊娠でしたし、とても特別な産まれ方をするんです。


さて・・・・。

 

次回はいよいよ我国だけではなく隣国にも絶大なる権力を持って居た、応神天皇の御生誕物語を語って行きたいと思います(*^^)v

 

実はこの話し、どこまで本当かわからない等と言われながらも・・・・その当時の物が色々有ったりするのです・・・・

『当時の物って凄くないですか?

そんな面白い不思議な物語に進んでいきます。

 

次のシリーズもお楽しみに(^^)/