
ブルーノートのアルバムに「From Hackensack To Englewood Cliffs」がある。ハッケンサックとは旧ヴァン・ゲルダー・スタジオがあった場所で、イングルウッド・クリフスは新スタジオの地名をいう。旧スタジオの最後と新スタジオの最初に録音したのはアイク・ケベックで、名門レーベルの影の立役者として手腕を奮ったケベックにライオンとゲルダーが感謝を込めての起用だ。
ジャズ専門レーベルがスイング・ジャズからモダン・ジャズに録音のメインを移していくときにモダン派のミュージシャンをライオンに紹介したのがケベックで、非公式ながら音楽ディレクターも務めていた。言うなればケベックがいなかったら、ジャズレコード史に残る1500番台の名盤はなかったかもしれないのだ。テナー奏者としては麻薬のせいで大活躍はできなかったが、ソウルフルでよく歌うロングトーンは魅力があるし、ブルーノートに残された数枚のアルバムはロングセラーとして今でも売れているという。
なかでも「It Might As Well Be Spring」は、この時期になると必ずターンテーブルに乗る。アルバムタイトル曲はリチャード・ロジャーズの名作として知られるが、ケベックの解釈が素晴らしい。決定的名演と言っていいだろう。闇を切るようなフレディー・ローチのオルガンのイントロ、それに絡むケベックの太い音、その絶妙なタイミング、柔らかい陽射しに包まれて静かに融ける雪のようなゆったりとしたテンポ、淡々と刻みながら、それでいて昂りもあるミルト・ヒントンのベースとアル・ヘアウッドのドラム、名演は飾らないところから生まれる。
「アイクはブルーノートにとって大恩人のひとりだ。彼の貢献がなければ、わたしもブルーノートもとっくの昔にジャズのレコーディングを諦めていただろう。だから、アイクにはもっと正しい評価が下されてほしいと願っていた」、とライオンは語っていた。モンクとパウエルを発掘してきたのはアイク・ケベックである。この背景を知って聴くとテナー奏者としての評価も春の気温のように上がるだろう。