B 認識ある過失と認識なき過失
未必の故意との境界にかかわる概念として認識ある過失と認識なき過失の分類がある。
通説である認容説によれば、認識ある過失とは、結果発生の可能性を認識しながら結果を認容しなかった場合、認識なき過失とは、結果発生の可能性を認識していなかった場合をいう※。
結果予見義務・結果回避義務との関係において、認識ある過失は、結果予見義務は尽くされているが、結果回避義務違反がある場合、認識なき過失は結果予見義務違反と結果回避義務違反の双方がある場合と解する見解がある(大塚)。しかし、結果予見義務の履行があるのならば、旧過失論では過失責任を問うことはできないし、両者の注意義務を要求する新過失論でも「過失」=注意義務違反を認めることはできない。
むしろ、結果の認容がない場合は、結果発生の可能性の認識があっても、結果回避の動機付けとはならず、結果回避の動機付けに向けられた結果予見義務の履行は尽くされていないというべきであり、認識ある過失もやはり結果予見義務違反が認められ、認識なき過失と注意義務違反の構造上変わりはないというべきである(旧過失論・動機説の立場からであるが内藤)。
※未必の故意と認識ある過失の区別
意思説から出発する認容説のほか、結果発生の可能性の認識の有無で区別する認識説ないし表象説、結果発生の蓋然性の認識の有無で区別する蓋然性説、結果発生の可能性の認識が行為の動機付けとなっているかどうかで区別する動機説、故意を実現意思と解し、実現意思の有無で区別する実現意思説などがある。古くから議論されているが、情況証拠による認定論からは、各説の実質的差異は大きくないのではないかと思われる。
また、認識ある過失と認識なき過失の分類は、過失責任の理解と関係しても議論される。認識なき過失は、無意識的であり、意思責任を問うことはできず、立法論としては認識ある過失のみ責任あるものとして処罰すべきとする考えがある。
しかしながら、今日の通説は、認識なき過失も間接的反規範的人格態度(人格責任論)、間接的な反対動機形成可能性(規範的責任論)などの観点から責任を問うことができるとし、両者の区別に対して理論上差異を認めない。
もっとも、結果的加重犯との関係上、認識ある過失の一部は、基本犯の故意犯と加重結果との結合犯と類似する。この過失犯と結果的加重犯との関係は、危険運転致傷罪と箇所で後述する。なお、アメリカ法における「重大な過失」は「認識ある過失」に類するものであり、立法論として過失の可罰性を「認識ある過失」に限定する見解は「重大な過失」限定説といってもよいのかもしれない。
C 事故形態による過失犯の類型
過失犯を社会的ないし刑事学的な事故形態から分類類型化すると以下のようになる。
ⅰ交通事故類型(自動車事故、鉄道事故、航空機事故、船舶事故など)
交通機関の発達によりその発生が顕著になり、許された危険の法理、信頼の原則等の提唱の契機となった類型である。鉄道事故、航空機事故などは、現場の直接行為者のみならず、管理監督者の責任が問われることも少なくない。自動車事故については、かつては業務上過失致死傷罪の適用がなされていたが、平成13年改正により、危険運転致死傷罪、平成19年改正により自動車運転過失致死傷罪が新設され、重罰化されている(後述)。
ⅱ医療過誤
身体の侵襲を伴う手術や薬物投与等の治療行為そのもののミスのほかそれに付随する医療行為としての検査・医療準備の単純ミス(電気ミスの接続ミス[前掲北大電気メス事件]、患者の人違い[最決平成19・3・26横浜市大病院患者取り違い事件]等)、診断、治療法の選択のミスなどがある。
外科手術などの治療行為=積極的な身体への侵襲を伴う場合は、理論上は、傷害ないし暴行の意思がある場合、傷害ないし傷害致死の構成要件に当たるが、正当な治療行為として正当化されるかどうかの違法阻却の問題として、可罰性が吟味される。すなわち、①治療の目的、②医学上一般に承認された妥当な方法(一般的医療水準との適合性)、③患者の同意、④医師による治療が正当化要件と解されている(加藤久雄・「医事刑法の学問的枠組み」現代刑事法2000年14号9頁参照。なお、③患者の同意がない場合はいわゆる「専断的治療行為」であり、別途その違法阻却=正当化が議論されている。)。
しかし、医療過誤は、実務上は、端的に業務上過失致死傷罪の問題、つまり過失があるかどうかが問題とされている※。
ここでの結果回避義務=基準行為は、行為当時の当該専門分野の通常の医師を基準(客観説)とした医療水準との適合性である。つまり行為当時の最先端最新の医療知識と治療方法が必ずしも結果回避義務の基準となるものではない。民事判例であるが「診察当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準」(最判昭和57・3・30)、具体的に刑事過失での医療水準逸脱としては「通常の血友病専門医が本件当時の被告人の立場に置かれれば、およそそのような判断はしないはずであるのに、利益に比して危険の大きい医療行為を選択してしまったような場合」である(東京地判平成12・2・24薬害エイズ帝京大ルート事件参照)。かかる医療水準と合致している限り、結果回避義務違反、つまり過失はないことになる。なお、当時多く行われた治療等でも「悪しき慣行」は一般的医療水準と解すべきではない。
医師の治療行為の萎縮等を防止するため、医療過誤に対して刑事責任を負わすべきでないとの議論も根強いが※※、医師と患者との関係からすると、患者は医師の行為に生命身体の安全を委ねるしかなく、社会の信頼からも医療過誤の刑事責任を一律に免除したり、過失の一般理論を越えて責任限定をはかることは他の過失事故の行為者と比べて不平等であって、妥当とは思われない。もっとも、医療行為の萎縮防止等を考慮し、インフォームドコンセント等の説明義務の履行も含めて医療過誤の可罰性の限界を慎重に吟味しなければならないのは、謙抑主義の観点から当然であるが、医療過誤を重大な過失に限定するのは業務上過失致死傷罪の解釈としては困難と思われる(なお、医療行為・治療行為の限界として、いわゆる安楽死、尊厳死の問題があるがここでは省略する。)。
※治療行為と傷害・傷害致死罪と業務上過失致死傷罪の適用
理論的には身体の侵襲を伴う治療行為は傷害・傷害致死罪の成否が問題となるはずである。殺意がある積極的安楽死、尊厳死は殺人、同意殺人の成否が問題になることは明白であるが、殺意のない身体の侵襲を伴う医療過誤の場合は、傷害・傷害致死罪ではなく業務上過失致死傷罪の成否が問われることが多い。
この点、理論的には以下のようなことが考えられる。
すなわち、傷害・傷害致死罪の構成要件に該当し正当な治療行為として違法性が阻却されなくても、行為者が正当な治療行為の誤認がある場合は、誤想防衛の場合と同様に正当化事情の錯誤の一種として、(責任)故意が阻却されると考えるか、あるいは正当な治療行為に伴う「傷害」行為は、社会的通常性を有し社会的相当行為の類型に属するもので可罰的違法性はない以上、そもそも「傷害」の構成要件該当性が阻却されるとの考えをとると(藤木・刑法講義総論127頁参照)、正当な治療行為には当たらないが自己の行為が正当な治療行為と誤認していた場合は可罰的な「傷害」の認識がなく(構成要件的)故意が阻却されるとも考えられる。
よって、いずれにせよ結局業務上過失致死傷の成否が問題となる。つまり、医師は違法な治療行為を遂行するとの認識は通常有していないので(医師は一般の医療水準に適合するように最善を尽くして手術を行おうとするのが普通であるから)、事実上、医療過誤において業務上過失致死傷罪が問われることがおおいのかもしれない。
他方、治療行為の正当化要件、とくに行為の一般的医療水準との適合性の有無は、医療過誤における業務上過失としての結果回避義務違反の有無と実質重なるものであって、正当な治療行為に当たらないということは、結局、結果回避義務違反があるということであり、結果の予見可能性・予見義務違反が肯定されるかぎり、業務上過失致死傷罪が成立することになろう。そうすると正当な治療行為の有無=結果回避義務違反の有無の判断を通じて傷害・傷害致死罪と業務上過失致死傷罪の適用の区別判断も行われることになり(訴訟法的観点からはこのような認定判断も許される)、実体法上の構成要件・違法阻却・責任の判断順序の思考(通説)は医療過誤の刑事責任の認定にあたってあまり意味をなさないのかもしれない(むしろ構成要件に違法阻却をとりこむ消極的構成要件要素の理論の認定構造のほうが適合的といえる。)。
※※医療過誤の刑事過失責任限定論
医療過誤について刑事過失による責任を問うことは、医療行為の萎縮、医療現場の混乱をまねくこと、刑事責任を追及しても医療過誤防止の効果はほとんどないこと、アメリカ法では多様な制裁制度があるため医療過誤の刑事過失の責任は、ほとんど問われないなどを根拠に、可罰的刑事過失と民事過失の区別論、アメリカ法的に「重大な過失」に刑事過失を限定する見解、立法論としての刑事免責論などが主張されている(萩原由美恵・「医療過誤における刑事責任の限定」中央学院大学法学論叢第24巻第39号[2011年]125頁以下、甲斐克則・「医療事故と刑法」68頁以下参照)。実際の医療過誤の刑事における業務上過失致死傷事件の年間の立件は少なく、裁判も略式命令(罰金)でおわることも多いとの指摘もある。それゆえ、実務は医療過誤の刑事過失の追及に謙抑的であるとの評価がある一方、近年、医療過誤の業務上過失致死傷事件の立件が増加しているとの指摘もなされている(萩原・前掲論文)。医療過誤の適切な防止策予防策と刑事制裁とのバランスを図りつつ解釈、運用、立法を考察していかなければならない。