きょうから冬休み。しかも三連休。
なのに、夫も息子もいない。
そして今、手元に残されているのは息子の『通知表』
といってもまだ小3。
評価は3段階で、しかも『よくできる』『できる』『がんばりましょう』という、
なんだかいまひとつあやふやな区分である。
まあ、無事に2学期終えたということでよしとしよう。
ここで深くひとつひとつ追求して
「じゃあ、かあさんはどうだったの?」
などと言われては困る。
とりあえずそういう場面では
「かあさんはやってきたわよ」
そう開き直っているが、最近、実家の両親(息子のじじばば)に確かめようとしたりもするので困る。
じじばばも、お願いだから少しは空気を読んでほしい。
まあ、証拠である私の通知表は、既にもう処分済みであるが。
世間一般ではどうだかしらないが、
あれをとっておいてのメリットなど、私にはないのだ。
例えは不謹慎かもしれないが
よく、犯罪者の昔の通知表やら文集やらアルバムがTVで流される。
もし、私が何かしでかしたら、本人全く覚えのない、
小中学生の単純アタマ(少なくとも私はそうだった)の文章とかをあれこれ分析されちまうのかと思ったら
『きちんと生きよう』
そう決意を新たにするのである。
私にとっては、刑罰の厳罰化より、『文集や通知表の公開』の方がはるかに犯罪の抑止力を持つのだ。
とまあ、私の思いはさておき
息子の担任は、通知表のほかに『がんばりしょう』という賞状をくれる。
計算ドリルや漢字ドリルの提出だとか、忘れ物とか、欠席とか、
どうやら何かしら該当するようにできているらしい。
他にもマラソンカードとかなわとびや鉄棒のカードもある。
なかにはもう何にも出すことができなくて『むちゃぶり』としか思えぬ項目もなきにしもあらずなのだが
それでも何かしら子どもたちは賞状をもらってくる。
「あなたのこと、ちゃんと見てますよ」
という気持ちが伝わってくるようだ。
私も親として、『がんばりしょう』を見つけられるような目を、子どもに持っていたいと思う。
といいつつ、宿題とは別にしっかり『冬休み用ドリル』を息子に課しているのだが。
なのに、夫も息子もいない。
そして今、手元に残されているのは息子の『通知表』
といってもまだ小3。
評価は3段階で、しかも『よくできる』『できる』『がんばりましょう』という、
なんだかいまひとつあやふやな区分である。
まあ、無事に2学期終えたということでよしとしよう。
ここで深くひとつひとつ追求して
「じゃあ、かあさんはどうだったの?」
などと言われては困る。
とりあえずそういう場面では
「かあさんはやってきたわよ」
そう開き直っているが、最近、実家の両親(息子のじじばば)に確かめようとしたりもするので困る。
じじばばも、お願いだから少しは空気を読んでほしい。
まあ、証拠である私の通知表は、既にもう処分済みであるが。
世間一般ではどうだかしらないが、
あれをとっておいてのメリットなど、私にはないのだ。
例えは不謹慎かもしれないが
よく、犯罪者の昔の通知表やら文集やらアルバムがTVで流される。
もし、私が何かしでかしたら、本人全く覚えのない、
小中学生の単純アタマ(少なくとも私はそうだった)の文章とかをあれこれ分析されちまうのかと思ったら
『きちんと生きよう』
そう決意を新たにするのである。
私にとっては、刑罰の厳罰化より、『文集や通知表の公開』の方がはるかに犯罪の抑止力を持つのだ。
とまあ、私の思いはさておき
息子の担任は、通知表のほかに『がんばりしょう』という賞状をくれる。
計算ドリルや漢字ドリルの提出だとか、忘れ物とか、欠席とか、
どうやら何かしら該当するようにできているらしい。
他にもマラソンカードとかなわとびや鉄棒のカードもある。
なかにはもう何にも出すことができなくて『むちゃぶり』としか思えぬ項目もなきにしもあらずなのだが
それでも何かしら子どもたちは賞状をもらってくる。
「あなたのこと、ちゃんと見てますよ」
という気持ちが伝わってくるようだ。
私も親として、『がんばりしょう』を見つけられるような目を、子どもに持っていたいと思う。
といいつつ、宿題とは別にしっかり『冬休み用ドリル』を息子に課しているのだが。