ある仕事の駐車場は、仕事場から少しだけ離れていて、

土曜日以外、ここで他の人と出会うことはめったにない。

この駐車場に隣接する家屋があるのだが、

雇い主に確認したところ、

もうずいぶん前から誰も住んでいない廃屋なのだそうだ。
 

きっとそうだろうなと思いながらも、

四季折々の営みを黙々と続けている庭の植物たちを見続けてきたので、

その古びてあちこち傷んでいる建物が死んでいる

(本来の家としての役割を終えた)ようには見えなかった。

 

というか、それを確認したいようなしたくないような

何とも言えない気持ちをずっと抱えていたのだ。

梅の木は花に次いで実をつけるのに、それを採る人もいないので

落ちるに任せ私が歩く道を汚す。

 

梅雨が明けるに従い、ムクゲは天辺目指して白、藤色、赤紫と

惜しみなく次々に花を咲かせる。

 

夏の盛りには目に涼しい真っ白な百合も咲かせてみせた。

 

タマシダは通年青々と家の周りを結界のように取り囲み、

斑入りの笹竹が入口で門番のように茂っている。

誰も見る人もおらず、手入れもされないのに、

今年の夏の暑さにも負けることなく、庭はけなげに生きていた。

そう、今年の夏だ。あの家が廃屋であることを確かめたのは。

なぜそんなことを聞いたのかというと、

その玄関前を通り越し、庭の角を曲がったときにふと、

庭の中から人の声が聞こえたような気がしたからだ。
 

それはほんのささやかな声量で

すぐ近くの人に話しかけているような、

普通の家の庭から聞こえてくる

家族の何気ない会話のようなものだった。
 

真夏の昼下がり、まぶしい日差しの下でのほんの一瞬だが、

聞こえたような気がしたのだ。
 

その家は三角地に建っていて、北側が私の停める駐車場、

南側を角地にして道路に挟まれている。隣家はない。

その時、私以外に人通りはなかった。

単なる空耳かもしれない。

でも私には、

その家とその庭が昔の楽しかった思い出を

私に聞かせてくれたような気がしたのだ。



この写真の左側に写っている梅の枝の下に、その家がある。
 

逢魔が刻、ふとそんな夏のことを思い出した。

今年の夏は長かったので、ずいぶん前のような気がしてしまう。