他人を巻き込む劇場型犯罪についてもう一つ

最近見た動画から思うのが

 

人から傷つけられても仕返しをしてはイケナイ

 

という道徳教育の弊害があるんじゃないかということ。

 

子供のころからよく

「イヤなことされてもやり返してはダメ

それでは復讐の連鎖が止まらない」

とか

「相手と同じレベルに落ちることになる」

とか

「相手を許せる人になろう」

とか

まあ、世の中きれいごとはいくらでもあります。

 

が、それは所詮、生ぬるい経験しかしていない人の言葉であり

性善説でやりくりできるレベルのお話なのです。

 

世の中には本当に鬼畜のごとき所業を何のためらいもなくできる生き物が

存在していることは、日々のテレビや新聞なんぞご覧になってる人ならわかりきっている。

 

そうでなくても、いやなことをされても我慢しているということは

自分のことを「そうされることにふさわしい存在」と認めていることになる。

それはつまり自己肯定感の形成に悪影響しかない。

まず、自分が自分を大切に扱うこと。そこからしか何も始まらない。

 

それが満たされて初めて、他人にも愛を与えられる。

お釈迦様のごとき人でもない凡人はそこからしか始められないのだ。

 

昔は、そんなきれいごとを教えながらも、

身近な大人の「本音と建て前」が見え隠れしたものだが

 

今のように、家族間でさえリアルな観察ができにくい生活をしていると

本音の部分が見えてこない。立派なそとづらしか知らずに成長し

 

「やられてもやり返してはイケナイ」を守ろうとすると

やりかえすべき時にやりかえすべき相手を見失い、

反撃する牙を教育に抜き取られ、鬱屈した自我が溜まっていく。

 

それが自分に向かえば、自身の精神を傷つけてしまうし

外に向かうと、「世間」という、輪郭のぼんやりしたものに

ある日突然、牙を剥くことになるんじゃないか。

 

小さい頃に、やられたらやり返すことを学んでいれば

最初に手を出した方も

「やったらやり返される」ことを学ぶことが出来る。

 

やり返すには立ち向かう勇気が必要なことも。

 

因果応報はこの世の大切な摂理なのに

「やられてもやり返してはイケナイ」は

それをゆがめるだけなんじゃないかと、思ったりする。

 

大人がきれいごとだけでなく「本音の」

「等身大の」人間像を子供に見せることは

(そりゃさじ加減もいるけど)

自他の「失敗」を許容する力をはぐくむことにもなる。

きれいごとは傷ついた人を更に傷つけると

動画の主もおっしゃっていましたな。