
奈良には年に数回足を運ぶ。神社仏閣巡りが主な目的だが、それにも増して楽しみなのが、中宮寺に安置されている、半跏思惟像を観る事だ。
アルカイックスマイルを称えた姿は、僕の怠惰な時間と人生を批判しながらも、柔らかに包み込んでくれるかの様な空間を醸しだす。
開門と同時に、静寂に包まれた御堂に座すると、無宗教論者の僕ですら、思想を巡らさずにはおれない。
都度、奈良を訪れる機会が多いと、其処かしこに修学旅行生を見掛ける。無邪気に微笑み、或はニヒルに構えながら、同じ制服達が、闊歩する様は、異様ながらも、懐かしくも儚い。
未だ制服に違和感を懐いている僕にとって、同じ服装の集団は、己の過去に対する憎悪と憐憫を生む。
僕は何処で人生を誤ったのだろう?
そんな修学旅行生を見ながら、歩いていると、記念撮影をしている少女達に出会った。彼女達は一例に並び、昔流行った、数人でする千手観音のポーズを決めている。離れた位置から、引率者がカメラを構えている。
僕は撮影している者が、外部の視点から、多重に撮影されているシュールさを気に入り、カメラを構えた。
最後尾の少女だけが、僕のカメラに気付き、さっさと体を入れ換える。もう少し寄り目でアングルを決めようとも考えたが、時間も無いし、広角の空間に唯独りの少女だけが、僕を見ている感覚を大切にして、スナップした。
広がりを持つ空間で、独り視線を違える事は愉快であるし、自由に近い感覚を得られる。誰かが教えてくれたのでは無く、自分が見つけ出した物に、視線を送る。それが、本来の美意識の根源なのかも知れない。
誰にも疎まれる様な、斜交い者の僕にも、過去に“愛している”と囁いてくれた女性が居る。
高校時代、嫌悪感を懐く制服に身を包み、無意味な日々を送っていると考えていた、世間知らずであった。
だから無意識の内に“死”を望んでいた。よく在る若気の至りと謗られようと、自分は20歳までには、命を棄てようと考えいた。
彼女とは、共に片田舎から学生の身分として京都に赴き、殆ど同棲に近い状態で過ごした。慣れない生活の中、淋しさを紛らわせる様に互いを必要とし、何時しか二人きりで過ごす時間が普通になっていった。無論、楽しい事ばかりでは無く、辛い事も泣く事も、悲喜こもごも有りはしたが、僕は本気で彼女を大切に想い、自分の命が無駄では無いと感じられる様になっていった。
長く儚い学生生活を終え、二人は郷里に帰った。が、良く有る事で、仕事やプライベートに時間を取られ、何時しか別れが訪れた。
別れ話は彼女から出た。
「他に好きな人が出来たの…。」
僕は僕で、バイクで走り回る時間が増え、彼女をなおざりにしていた。少しの期間は、友人関係を保っていたが、今度は僕に新な恋人が出来た。
必死に彼女を忘れようとしていた在る日。彼女が好きだった曲を口ずさんだ瞬間、僕の心は穏やかに、そして静まりを保ちながら、彼女の事を友人として見る事が出来る様になった。
唯一曲で、感情が変わる経験など、二度としていない。今でもあの不可思議な体験は、鮮明に僕の記憶に刻まれている。
最後に二人きりで会った時、僕は彼女に新な恋人の存在を明かした。
「本当に愛してたよ、君の事。」
言いながら、俯く彼女の顔を見られず、僕はそっぽを向き続けながら尋ねた。
「何時まで、僕を好きで居てくれたんだ?」
「今まで…。」
呟く彼女に対し“今なら戻れる”と感じながらも、僕は“アリガトウ”と伝える事すら出来なかった。
それから、3年程経ち、共通の友人を交え、彼女と酒を酌み交わした。彼女は優しく温かな眼差しを、連れてきた我が子に注いでいた。
「君は、20歳で死ぬと高校生の時から、言ってたのに…ちっとも死なないよね。本当に嘘つきだよね。付き合ってた時は怖かったけど、ずっと期待しながら待ってたのに…。」
彼女の何気ない一言が、僕の感情を締め付けた。
“君の暴言は綺麗過ぎる”
僕には何も言い返す術も無く、唯大笑いを続けるしか無かった。
きっと彼女は、こんなくだらない会話など、当の昔に忘れてしまっているだろう。
それでもあの時、彼女の言葉に答える勇気と優しさが有れば…。
彼女のお陰で、僕は陳腐な死に対する望みを棄てられた事を…。
久々に彼女と出会った。友人達との邂逅の席に現れた彼女は、老け疲れた表情をしながらも、当時の面影を残す美人だった。
互いに恥ずかしい過去の時間など、忘れ去って、静かに会話を交わした。彼女にとって僕は、完全に忘却した存在。いや、それなら増しな方で、本当は忌むべき存在になっているのかも知れない。それとも消し去るべき汚点なのか…。
僕にとっても彼女は、輪郭の暮夜けた追憶だけの存在。
だから、次に出会えたならば…。
少し勇気と優しさを持って、伝えよう。
“アリガトウ、君ニ出逢タカラ、僕ハ今デモ生キテ居ラレル”…と。