11月4日(木)

 昨日はほとほとツイていない日だった。


 事のはじまりは、昼にはじめた部屋のそうじ。そうじきをかける作業がこの頃好きな僕は、ちょうどシールを貼ることを覚えた幼児のように、ところかまわず吸込口をあてる。あるいはシュモクザメの頭の形のような床用吸込口で。あるいはそれを外してすきま用に特化した吸込口で。だからときどき何食わぬ顔で垂直方向、壁に向かってそうじきをかけていることがある。ふつうそうじきは窓を開け放してやるものだから、眼下の通りを往くご近所さんがあんぐり口をあけて見上げている、ということがある。僕流のそうじきは、三次元なのである。


 そしてそうじきをかける作業の仕上げは、いつもこのノートパソコンのそうじで終わる。キーボードの下に入り込んでしまったお菓子の粉や消しかすなどの小さなゴミを吸い込んでやるのだ。いつものようにすきま用吸込口を、ボード上に軽く接地させたまま何往復かかける。すると、突然なにやら固いものを吸い込んだときの「カチャカチャッ」と音がし、確実にホースの中を伝って吸い込まれた感触があった。この度「な」という名のキーを吸い込んでしまったのである。


 その後のホコリとの格闘の末、なんとか「な」を救出することができた。が、捜索の際に大量に舞う塵埃(じんあい)により、僕の衛生とりわけ「精神衛生」はひどく汚された心地になった。サイアク。


 不幸はまだ続いていた。晴れて見つかった「な」をもとの場所に戻そうとやってみたが、キーの取り付けは思った以上に難しい作業だった。たくさんの回り道を経た末にようやく見た目こそ戻ったが、今こうしてキーボードを使用すると、ひとつだけ違和感のある押し心地に誤打が頻発するようになってしまった。これはさながら、武士が刀を抜き差しする度に、鞘にちょっと引っ掛かることにさも似たり。すごいストレスなのである。サイアク。


 そんなハプニングでたくさんの時間をロスした。気づけばもう家を出ないといけない時間が迫っていた。慌てて用意をし、いざ部屋を出ようとしたところで、たくさん積んでいたCDの山を誤って崩してしまった。「片付けは帰ってから」と切り替えられない僕はブツブツ悪態をつきながら積みなおす。これで遅刻確定。サイアク。


 こういう日ほど、と僕は気持ちとヘルメットのあご紐を締めなおし、原付きに乗る。ロスを取り戻そうと飛ばせば「必ず」事故を起こすもしくは御用になる――。そう思うくらいでちょうどよいのだ。急がば回れで慎重に走る。それでも途中、二度ほどヒヤリとすることとなったのだが。


 疲弊を憩うために、帰り道になじみの喫茶店に立ち寄る。昨日は事のほかコーヒーの利尿作用がよく働き、トイレに向かうも中の住人は忙殺されているらしく、その後半時間ほど出てこなかった、サイアク。帰路、いつものように風にのって高らかに放歌していたら、歌いたい歌の歌詞が出てこずラララでやり過ごさなくてはならなかった、サイアク。晩ごはんに出た苦手なニンジンが、その味がわかりすぎるほど分厚く切られていてツラかった、サイアク。極めつけは、「もぐりの家庭教師(9月26日ぶん参照)」。簡単な英文なのに、熱心な説明の甲斐なく昨日、「生徒」にはほとんど響かなかった、サイアク。


 それでも、知っている。特に後半のひとつひとつなどは、単体で見れば「サイアク」なことでもなんでもない。すべては、はじめに「サイアク」なことがあったから、だ。そこでその日はもう心のアンテナが、絶えず「サイアク」探しに奔走するモードになってしまったのだ。そんなモードでは身辺に「サイアク」を見つけることなど造作なく、そんなフィルターがかかれば、そうでないものでも「サイアク」に見えてしまう。


 悪い流れはここで終了、と具体的に体を動かして流れを断ち切るパフォーマンスをしなければならなかった。きっとそういうことで事態は変わる。事態の見え方は、変わる。気持ちが弱腰のときは、体が強気になって引っ張る。逆もまた然りだ。人間とは、そうやって「うまくやる、あるいは、しのぐ」ことができるようになっているものだ。そう考えれば、「今日はツイていない」などという台詞はこの世から消えるはずだ。


 そんな中、昨日を通して逆に幸運だと思い続けられる一幕があったのも事実。すなわち、「サイアク」が降りかかるたびに「これ、ブログに書けるなぁ」とフムフム頷いていたのだ。それにより多少「サイアク」の最悪性が緩和されていたことは真実である。ブログをやっていてヨカッタ。