11月1日(月)

 先日、ふたりで道を歩いていると、ぽつりぽつりと雨が落ちてきた。やがて降りはじめた雨はしかしごくごく小降りで、傘を持つ人はさすべきかどうか悩むところだろう。


 僕は傘が嫌いである。その道具の原始的さゆえに、というわけではなく、むしろその原始的さは「どうしてこのハイテク喧しい現代にあって改革されないのだろうか」という点で興味深いものである。傘嫌いの理由は、単に、入用以外のときには邪魔だからだ。煩わしくも持ち歩かなければ濡れてしまうというのならば、「春雨じゃ、濡れていこう」ではないが、僕はそちらを選ぶ。というよりかは、折りたたみ傘を携行する。ふつうの傘は嫌いだが、それが折りたためるならば一転して大好きになるのだ。


 いかにその守備範囲が広くても、傘では頭からつま先までを完全に防水することはできない。なかんずく足もとなどは傘の管轄外といってよいのかもしれない。大きい傘(ふつうの傘)と小さい傘(折りたたみ傘)の違いは、「雨に濡れるか濡れないか」ではない。雨に濡れることはもはや不可避であり、「どの程度濡れるか」である。そうなればたしかに守備範囲の狭い折りたたみ傘のほうが濡れる範囲は広くなるが、だからといってすでに大差はない。そういうわけで、「折りたたみ傘を選ぶ人は真理がみえている人である」と信じてやまない自分がいた。ファッションアイテムとしての傘、などの概念は、開いて干して、猫に持っていかれても惜しくもなんともない。一言添えるならば、女の子のそういう概念はとても良いと思う。


 しかし、そこには思わぬ落とし穴が待っている。それは折りたたみ傘の唯一にして最大の弱点である。「しまうのが面倒くさいゆえに、出し渋りがちになる」。結局、よほどの「純屋外」を歩くとき以外、屋根から屋根へのちょっとした降雨地帯などではヒャーといいながら「折りたたみ・解放」することなく強引に突っ切る破目になる。


 ふたりで道を歩いていると、雨が降ってきた。ほんとうに濡れていくにやぶさかではない程度の雨だったのだが、仮に「さすのに手間のいらない」傘を持っていたなら、僕でもきっとさす。いわんや「きちんとふつうの傘」を持ってきている友達をや。


「イーヨ僕には気を使わずに」僕は本心でそういったが、その通りの展開に進むはずがない。やさしい人ならば「自分ひとりだけ傘に入るのは忍びない」という心理が働くものである。そういうわけで次の瞬間にはもう僕はひとつ傘の下に入れてもらっていた。あろうことか「ありがたい」などと思う自分がいた。胸に残るのは気分の悪い違和感だけである。


 同じ時間・空間を共有している人がいるならば、もはや自分の体(存在)とは「自分ひとりの体(存在)」ではない。何をしても相手に何かしら作用し、時間・空間を同じくする人との水面には絶えずあらゆる波紋が描かれる。


 この場合でいえば、「イーヨ僕には気を使わずに(ひとりで傘に入って)」というべきではなかった。面倒でも折りたたみ傘を出すべきだった、も、またちょっと違う。「ふつうの傘」を携行しておく。それが最もよい解答なのである。あのときの自分とはなんと愚かだったのかと恥ずかしくなる。


 好き嫌いとして「ふつうの傘は嫌い」は別にかまわない。しかし、それに意固地になり「共有者」との水面を汚すようなことはあってはならない。「嫌い、だから、しない(持たない)」とは大人のすることではない。ようやく、僕はすこし変わることができそうだ。