流果(るか)は「さとりの流れに到達する」意味である。

「この境地に到れば、それ以前の俗世の世界に退堕(たいだ)することなく、人間界と天界を7回転生している間に修業が進み、さとりの境地に到達する人」「極七返有・ごくしちぽんぬ」「極七返生・ごくしちぽんしょう」ともよばれる。
預流果(よるか)は三結(有身見・疑・戒禁取)を完全に断滅した人である。

 

有身見:五蘊を自己とみなす見解

疑: 教義への疑い

戒禁取: 誤った戒律・禁制への執着

 

有身見:

 

釈迦は以下のように有身見を記載している。

 

では比丘たちよ、どのようなものが捨てられるべき煩悩であるのか?

比丘たちよ、ここに(法の教えを聞いていない)庶民の人がいるとする。 ..(中略)..彼らはこのように不適切に考える。

 

私は過去に存在したのか? 過去の私は何物だったのか?

未来に私は存在するのか? 未来の私は何物となっているか?

私は何物なのか? 私はどのようであるか?

私はどこから来たのか? 私はどこへ行くのか?

このような間違った方法で考えるものは、これら6つの見解に至る。

 

私には我(アートマン)がある

私には我がない

私が我と知覚しているもの、それが我(アートマン)である

私が我と知覚しているもの、それは我ではない

私は無我によって、私の我を知覚する

いま語り感受している私こそが我であり、私の我は恒常であり、不変であり、永久に存在する

比丘たちよ、これらは、悪見、見の密林、見の荒野、見の曲芸、見による狂乱、見による結束と呼ばれている。

 

 

 

疑 :「疑念」や「躊躇」といった意味を持つ。四諦の教えに対しての躊躇と定義され、健康な生き方への取り組みの妨げとして機能する

 

疑は、以下として示されている。

 

禅定の妨げとなる五蓋のひとつ

大乗仏教における煩悩心所のひとつ

上座部仏教における不善心所のひとつ

パーリ経典における十結のひとつ

説一切有部の五位七十五法のうち、(心所法-)不定法のひとつ

仏教の示す真理に対して思い定むることなく、まず疑ってかかる心である。このような心をもつ限り、いかなる教えも自心は受け付けることはない。

 

執着の種類

経蔵においては、釈迦は4つの執着を示している。

 

感覚-喜びへの執着 ( 欲取)

間違った視点への執着 (見取)

儀式と象徴への執着 (戒禁取)

自我信条への執着 (我語取)

この4つを総称して、四取(ししゅ)と呼ぶ。

 

まだ修業がたりぬ。