この世での目的が悟りに至るという事以外とするなら、人は何の為に生まれてきたのだろうか?

人の心の中を察するのは容易ではないが、おそらく多くの人はこの世の在り方に矛盾を感じていて、今のままの生き方を懐疑心を抱いているのだろう。でも、この疑問感を明確に解き明かしてくれる教師もおらず、ただ迫りくる寿命のタイムリミットを娯楽や仕事などで埋め尽くし、それを繰り返している人が大多数だ。

 

原始仏教に四向四果という言葉がある。人が涅槃に至るまでの段階を解説したものであるが、己の生の在り方に疑問を抱いた瞬間は、預流向と考えていいだろう。この状態の場合、己のうちに生じている疑問感の正体が分からず、人生の目的を見失っているという事が多い。この世に生きている人の多くは預流向で、進む道が定まっていない。だからこそこの世は無秩序かつ理解不能で、すべてに纏まりが無いのだ。

 

悟りとは何か?という命題を考える時、これまでの歴史でその境地に至った人物がどれだけ存在するかという事を思う。

人は7回生まれ変わり、その間徐々に煩悩を断っていくという。己を顧みてどの向・果に属しているかを確認して、修行の成否を判定する。しかし、人にできるのはおよその類推だけ。実際に評定を下すの神仏であり、勝手に自分が行きたい次元に行けるという訳ではない。そして、四向四果の最終段階は阿羅漢向であり、この状態は仏陀やキリストという事になる。

釈迦・キリストと言えば、人間の歴史上、最も自己犠牲に身をささげた人物で、その修業はいかに厳しいものかを垣間見れるだろう。そしてこの世の多くの人が、この四向四果という言葉を知らない。実に嘆かわしい事だ。

 

できる事なら四向四果を通り抜け、すべての煩悩を滅し輝ける仏国土に行ってみたいものだ。そして、仏国土から人間界に帰還し、今一度四向四果を通り抜けたい。宇宙はこの法則で成り立っている。およそ数学や天体望遠鏡で観察することはできないのだ。