私たちは罰を与えられることより、裁かれる(嫌われるも含む)ことが怖い

だから、裁かれる前に自分を罰し

そしていつしか、自分を罰する=自分は悪い(恥ずかしい)⇒悪い自分は受け取らない


【罪や責め】は自分が作リ出した幻想で、怖がらずにそれを見つめたら、本当は何に怒っているのかを一緒に見つめる作業をしたら、昇華し消える(そうではないものになる)



怒りについても、「手放す」っていうけど、怒りは手放すというより「手離れる」。

そこもよーく、「怒り」の中身を見てみることが大事で、その見る深さが癒される深さといえる。

怒りはとても強いエネルギー。

大抵のものはこれで抑え込むことができる。

なので、この抑え込んでしまったものを開けて見てみることが大事になってくる。

私には、この怒りを開けることをしないで、
他者のことを何とかしようとする人がすぐにわかる。


この怒りを開けると、本当に感じたくなかったもの、認知したくはない本当の自分が見つかり、出会ってしまう。

その思い込みに触れることを恐れ、
‘’そんなものは自分には無い‘’と言い聞かせ、
より「あなたは愛の人だ」と周りに言ってもらえるよう、立ち振る舞うことに躍起になる。

もちろん、蓋をしている自分のシャドーは
クライアントに投射される

ただ防衛が働いているクライアントをジャッジしたり、また恐怖に感じたり

その自分が見てるものを
また、遠ざけては、また怒る...

怒っている私など、みっともないから
今度は知性で防衛したりする

その目の前に見ているのは「自分」なのに

そして、

その怒りは

本当はあなたが誰にわかって欲しかったものですか?