絵里さんと僕はリビングへ駆け込んだ。
「ママ、タブレットミラーを開くよ」
「いよいよ時空トンネルの出口、駿と潤の行先が現れるのね」
女神ディアナが、まるで結界を張ったかのように潜んでいた所が判明する。
数分前、車内で眺めた手鏡の映像では、二頭のペガサスがコバルト・ブルーの水しぶきをあげて飛び出した。
白い岸壁も、チラリと映っていた。自然を司る女神だけに、人里離れたグレイト・ネイチャーな場所を選んだのかもしれない。
三日月と、どうやら捜索隊が照らすライトの灯りが、現地を把握する頼みの綱だ。
暗闇に目が慣れていくにつれ、周辺が分って来た。
時空トンネルの出口は、砂浜のない岩石海岸だ。海岸は緩やかな丘陵地帯に、囲まれているようだ。ところどころ、白っぽい崖が見える。この付近は、石灰岩質なのかもしれない。
何処だろう?
「アンナちゃんね、怪我はしてないけれど。搬送最中、余り振動を与えない様に、ハハッ…メルクリウスから伝えて」
おっと、場所の特定が目的じゃない。メルクリウスに頼み事をしている方は、間違いなく女神ディアナだよな?そうであれば、無事に発見された訳だが、緊急事態が発生してやしないか?
「ディアナ頼むから笑うな。ハハハッ、違う違う、寝たまま振り向くな、腰も痛めるぞ。愛犬の搬送は向こうに任せて、じっとしてくれよ」
なんてこったい!
女神捜索隊は二手に別れて、ディアナと大型犬の緊急対応に追われてる。
ワンちゃんは、ディアナの愛犬だな。
現地は夜だ、かつ岩石海岸での作業だ。捜索隊は各自がライトを身に付けて、慎重に進めているはずだ。しかし笑いが込み上げているのは、何故だろう。
「ディアナ、全身の力を抜いて、私とメルクリウスに体を預けて下さい。でないと私達だって、アハハッ…腰を痛めます。まして私は、笑うと腹の傷に響きますから。ハハハッ」
「ガイウス、ハハハッ…ごめんなさいねえ。でもアナタの痛みも、分かるわあ。アタシもお尻が痛い、腰の方まで波及してる。痛みって、姿勢や動き方に連動して、強弱があるわね」
メルクリウスが、ディアナの体を起こしている。
術後のガイウスは左側から、二人が勢い余り倒れ込まないよう、ディアナの体を支えている。
救助する二人は、左右どちらかの耳介付近に、ヘッドライトを巻いて点灯している。正面から照らしたら、ディアナが眩しい。
ああヘッドライトの位置で、つい笑ってしまうのか。ディアナと愛犬は、命に別状はないって証拠だから、まずは一安心。
ディアナの手元にはランタンも点灯しているから、凸凹した岩場周辺、視界は確保されている。波も穏やかだ、ザブーンと被ってしまうのは避けられそうだ。
ディアナは上半身は右側を下にして、かつ傾斜をつけて横になっていた。そうか、臀部痛を軽減するためだ。
体の下には見覚えのある、体圧分散用の青い低反発マットや、その下には厚手のタオルが敷いてある。
ディアナは飾りのないシンプルな、こげ茶色のワンピースを着ている。
長いワンピースの丈をたくし上げて、海水に両足を浸けていたようだ。臀部痛に加えて、海水に濡れたワンピースの裾が重たくて、抜けられなくなったんだろうか?
しかし、ディアナの行動は妙だ。なぜ人けのない夜の海、波打ち際の潮だまりへ、臀部痛を推してまで両足をつけていたのだろう?
「ハハハッ…ハーアッ。一応、腰にはコルセットを巻いていた、膝もサポーターを付けていた。無防備だった、まさかの臀部を痛めるなんて。油断は禁物ね」
うっかり大きな声を出すと患部に響いて、痛みが増すはずだ。腰痛持ちの僕も、度々経験している。
「勝利の女神ニケのスニーカーを履き潰すほど、長旅、巡礼をご苦労さま。でもねえ、俺みたいに旅の途中で、オサレなニューモデルに靴を買い変えなさいよ」
今度はメルクリウスリウスが冗談めかしつつ、ディアナを労った。
なるほど、女神は巡礼の旅に廻っていたのか。
「ニケの前は、バツが悪くて素通りしたわあ。ニケも観光客に紛れた、アタシに気が付かなかったみたい」
ニケとは、エフェソス遺跡にある「勝利の女神ニケ」、女神の像を指しているだろう。
ディアナがニケに対してバツが悪い、さらに相手も気が付かなかった、どう言う意味だ?
僕はライトに照らされる、ディアナの全身を改めて注意深く見つめた。
そうそう…メルクリウスも、女神ディアナを探して飛び回った。
それこそドイツクのサンテンから、ウィーンはカルヌントムからその先まで。女神と親しい動物にも、協力を依頼した。
ガイウスとアレスも、ネミ湖付近まで出かけて、行方不明のディアナを追った。ひょっとしたら互いに、似た様なルートを通っていたかもしれない。
それでも女神の行方は掴めなかった、エネルギーを感じ取れなかったんだ。
巡礼の途中で、女神ディアナの身に何が起きたのだろう。果たしてミラの病状と、魔法が溶けて生まれ変わりへ進んでいる変化を、女神に相談できるだろうか?
「パパ。ディアナは尻もちを突いたあと、臀部が痛い。尾骨付近を、骨折しているかしら?画像を撮らないと、はっきりしないけれど」
僕が黙ったまま考え込んでいたら、絵里さんがディアナの診断を予測した。
「尻もちから、骨折のパターンはありうるね。でも臀部痛を抱えた上で、夜の海で、無理な姿勢で足浴は妙だよね」
鎮痛剤を、飲んでいるかもしれないが。普通は痛みの軽減を優先するでしょう。ナースの十八番、足浴は、病棟では主に下肢の血行改善の目的で行うかなあ…。
ディアナも長旅による足の疲労を改善、天然のタラソテラピー効果を、期待したのかもしれない。
僕らのメダイ・コールは、息子達が身に付けている。捜索隊のメンバーと、直接会話できない。ミラーには僕らの姿も映らない、ライブ配信を眺めるのみ。聞きたい事は山ほどあるから、ちょっとジレッタイ。
「ママ。僕はディアナの全身を観察してたんだけど。女神の様子で、一番不可解な事があるでしょう?」
臀部痛や、夜の海で足浴をした事情よりも、女神にとっては深刻だろう。画面を眺めながら、おそらく絵里さんも、感覚を研ぎ澄ましてきたはずだ。
「うん、分かってた。女神ディアナから、神々しいエネルギーを全く感じない。一体、どうしちゃったのかしら?」
「やっぱり、そうだよね」
最初一目見た時、ディアナご本人かと疑ってしまった。女神ディアナから、神々のエネルギーが伝わらない。
救出作業中のメルクリウスでも、天上から光が降り注ぐような、パワーを放ってる。神格化を控えたガイウスも、多少なりそれを放っている。
ところが今のディアナには、神々のエネルギーが枯渇している。
ディアナが女神だと知らない誰かに、駿と潤の「ホームステイ先の、面倒見のいいお母さん」と紹介したら、信じてしまいそうだ。
ブロンドの髪はバッサリ、ベリー・ショートカットだ、その影響なのか「人間女性」っぽく見える。
疑問は多々あるが、女神ディアナの救助ばかりに注目してはいられない。
ディアナの愛犬を、担架に乗せて搬送するメンバーも奮闘していた。
波打ち際からやや離れた、丘の上に続く崖道のような、小道を進んでいた。
折り畳み式の担架を運ぶのはガタイのいいマルスと、彼と上背がほぼ同じガレノス先生だ。
二人もヘルメットに付いたライトを点灯して、進んでいた。潤が先頭を歩いて、ランタンで足元を広範囲に照らしている。
万が一、足を踏み外したら岩場に転落する可能性も否めない、慎重に進んで欲しい。
「アンナちゃんはディアナと旅をしているうちに、飲食が取れなくなった。アポロさんの神獣クリ二ックへ、夜間救急で診察を頼んで下さい。バッカスさん、お願いします」
「うん、分かった」
潤がワンちゃんの状態を、簡単に告げた。
首輪にはディアナのシンボル、三日月の飾りが付いている。グレーとホワイトの短毛でスリムなボデイ、何処となく柴犬に似ている。
そうそう、ディアナの双子の弟アポロは医療の神様だ、「神獣医師」の資格も取っていたっけ。
「神獣クリニック・アポロ」
通販ぺガサリオンのサイトやカタログに、広告が載っていたなあ。夜間診療、救急対応も受け入れていた。人間界の動物病院並みに、設備は整っている様だ。神獣のフォローも、神々は力を注いでいる。
「よし、焔の鷲よ。ユピテルとウエスタに、女神ディアナの経緯を報告しておくれ!でケンイチさんにクリニックへ、診察の一報を入れてもらって。僕らはペガサスと共に戻るからさあ!」
バッカスは慣れた手つきで、焔の鷲を両手で抱き上げると、夜空へ放った。酒神の被るヘルメットにも、ライトが付いている。焔の鷲の姿を、はっきり照らした。駿もランタンで、鷲の動きを追っている。ここでまたしても、僕は思い込みに気が付いた。それは焔の鷲についてだ。
「ねえママ、焔の鷲は全身がコバルト・ブルーだったなんて、思いもしなかった。綺麗だなあ」
「ええ。光に照らされると、鮮やかに煌めいている。時空トンネルの出口で見えた、水しぶきと同じ色ね」
稀に見る美しさを持つ焔の鷲は、急上昇しながら、スッと時空へ姿を消してしまった。
さて、ペガサスが搬送するストレッチャーの四隅にある、小型のライトも点灯して準備万端だ。
丁度、息子達のスイミング用のリュック、ゴーグルとキャップが、ライトに照らされている。
今回は使わないだろうが。普段から飲み物やプロテインバーも、準備しておいて良かった。想定外の事態って、本当にいつ起こるか分からないな。
緊急事態にはネロとチェトラの他に、二頭のペガサスが助っ人に駆けつけていた。
ぺガサリオンの社員だろう。4頭は社名のロゴが付いたヘッドライトを、額に巻き付けている。
僕はあるグッズが、気になっていた。女神ディアナがベリー・ショートカットへ変身、ヘルメットや社名ロゴ、神獣クリニックの広告も、大いに関係している。
「ママ。女神ディアナは通販ぺガサリオンから、防災グッスをプロデュ―スしていたよね。話題に出た腰のコルセット、膝のサポーターは別売りだよ」
このカタログ写真では、女神ディアナはロングヘアだった。まだ直接、お目に掛かってはない。だから僕のイメージでは、ディアナは金髪のロングヘア、かつ多才だった。
「そうそう、捜索隊が使っているヘッドライトやヘルメットも全て、防災セットの備品。折り畳み式の担架と低反発マット、ペガサスが搬送できるストレッチャーも、ディアナのプロデュ―スね」
絵里さんはスマホから「通販ぺガサリオン」のサイトを開いて、該当ページを表示してくれた。
ページにはロングヘア、白シャツを着た女神ディアナのモデルさん風な姿と、防災グッズを入れたバック・パックの写真、プロデュ―スの切っ掛けになったエピソードが載っている。
…太古の時代に遡り、わたくしはライフワークとする巡礼の途中で、度々、緊急事態に遭遇してきました。この経験から、防災への意識を高めてまいりました…
時は紀元前、ディアナはエフェソスに建てられた自分の神殿、「アルテミス神殿」の視察中に起きた。「ゴオオーッ」、あろうことか、神殿放火事件に巻き込まれた。
またある時は。
「ドカーンッ!」、あやうく遺跡もろとも、吹っ飛びそうになった。内戦が勃発した。
…自然災害も、遭遇しました、例えば地震や津波。そこから生活環境の変化に伴う、感染症の発生も目撃してきました。
各地に祠や神殿を持つ神々は、巡礼箇所も数知れず。だからこそ、非常時の備えは大事だと思いませんか…
女神ディアナはこんな経緯を経て、様々な防災グッズをプロデュ―ス、リニューアルしてきた。
ぺガサリオンの協力、もと皇帝侍医ガレノス先生と、双子の弟で医療の神アポロ監修だ。当然、医学的な知識も学んだ。
防災グッズは医薬品や、携帯用食品も備えている。今回の巡礼の旅にも、持参したはずだ。
なおさら臀部痛を抱え、しかも夜の海で妙な体勢で足浴を行っていたディアナの行動、背景が知りたい。
…一太、絵里ちゃん。聞こえてるかな?倫太郎です…
ここで自宅で配信を見ている親友が、声を掛けてくれた。親友夫婦の姿は、もちろんミラーに映っていた。
…既に、感じていると思う。女神ディアナアから、神々のエネルギーが消えているだろう?他にも訳があって巡礼の途中で、予定を変更した。トルコのイズミルから、巡礼の最終地点マルタ島へ渡ったんだ…
やはり、僕らも感じていた通りだ。女神ディアナは、神々が持つエネルギーを消失していた。
…だから人間の中に、溶け込んでしまった。そうとは知らずにいた仲間の神々、私達も含めて、女神ディアナが放っているだろう、エネルギーばかりに注目、意識を集中していた。結果、存在をキャッチできなかったようです。女神の方も、仲間が探している事に気が付かなかった…
親友夫婦のお陰で、女神ディアナの身に起きた異変が、徐々に分ってきた。
女神は結界を張ったかの様に、潜んでいたのではない。神々が持つエネルギーが枯渇して、逆に行方を掴めなかっただけだ。亜子ちゃんの言うように、存在をキャチできなかった。
それが原因の一つとなり、ディアナは巡礼の予定を変更してゴールのマルタ共和国へ渡ったようだ。
乏しい知識だけど、マルタはシチリア島の下方に位置したな。ローマ帝国に含まれた時代よりも、さらに遠い昔、人間が文字を使う以前の時代から、多くの神々と人々が行き交った場所だ。シチリア島と同様、海洋貿易の中継地点でもあった。
「駿、潤、ありがとうねえ。バッカスとガレノス、後を頼みます」
丁度、アンナちゃんが搬送された。ペガサスには、アレス以外のメンバーが乗っている。
潮だまりから救出されたディアナは、離陸したレスキュー・ペガサスへ、手を振って見送っている。
ここでワンちゃん搬送メンバーの動き、配信は自然と終えた。この先は任せて安心、メダイ・コールからのメッセージが含まれそうだ。
さて次はディアナの番だ。
サンダルを履いた女神は、やや前傾姿勢で、心持ち左右に体を振って、ヨロヨロ歩いている。
ディアナの体はメルクリウスとガイウスが、左右の脇の下から腕を入れて支えている。
もちろん、麻痺がある様な歩行ではないが。臀部痛だけにしては、体の重心がブレて不安定な歩行だな…。
丁度アンナちゃんの搬送を終えたマルスが、崖道を引き返している。おそらく術後の創痛を抱えたガイウスと、交代するつもりだろう。
ここで倫太郎が、巡礼の予定を短縮せざるを得なかった、女神ディアナの状態について、話しを続けた。
…女神ディアナは去年のF1オーストリア・グランプリを観戦した後、巡礼に出た。スタートはカルヌントゥムのアウレリア街道から、ドナウ河を東へ進んだ…
僕はテーブルの下の隙間から、「通販ぺガサリオン」のカタログを取り出した。
今月号のカタログ、最後のページには現代の地図と、「全ての道はローマに通ず・古代ローマ街道」帝国マップが載っていた。
「我らが海」、地中海との位置関係も同時に掴める。滅多に無いけど、こんな時に便利だ。
因みに神々の世界も人間同様、「通話注文派」と「ポチる派」がいらっしゃるそうで。希望者にはカタログも定期的に届く。
いづこも同じ、カタログはマニアにとって家宝。まあ我が家も然り。
さてマニア倫太郎によると。
女神ディアナの巡礼は、かつてローマ街道が敷設された付近に沿って、ローマゆかりの都市、遺跡を中心に廻る予定だった。
地中海沿岸を下りエジプトへ、そのままアフリカ大陸を地続きで行き、カルタゴ、現在のチュニジアを経由して、シチリアからマルタ島へ渡る行程だ。
カルヌントムをスタートした女神ディアナは、まず黒海を目指して進んだ。
ドナウ河の終点までたどり着いたあとは、南下した。
そのまま黒海に沿って進み、コンスタンティノープル…現在のイスタンブールから、トルコへ入った。ここでローマ帝国の代名詞、水道橋…ヴァレンス水道橋の下を歩いた、アンカラ、ペルガモンなど古代都市を訪れた。
かつてアナトリア地方と呼ばれたトルコ一帯は、実はディアナにとって、ゆかりの深いエリアだ。
女神ディアナのもう一つの顔、「豊穣の女神アルテミス」として崇拝された場所だ。
エフェソス遺跡には、かつて巨大なアルテミス神殿が建てられた。ローマ帝国が誕生する以前、紀元前7世紀だ。
…アナトリア地方で生活していた多くの民族が、地母神として崇拝していた女神が、のちにギリシア文化と融合して女神アルテミスとなった。
やがてローマ帝国の州都も置かれた。ゆくゆくキリスト教が、信仰の中心にシフトするけれども。ディアナにとってアナトリア地方はルーツの一つ、巡礼となると思いもひとしおだろうね…
古代ローマを愛してやまない倫太郎は、いつぞや聖書をぺガサリオンで購入した。旧約と新約が合体してる、あの分厚い物だ。
オタクの親友によると、確かに女神ディアナ…アルテミスのルーツで、「地母神を崇拝していた民族」は、旧約聖書では「ヘテ人の全地」なんて表現で、何度か登場しているそうだ。
チョイと脱線するが…二頭立てチャリオットを、最初に製造した民族がヘテ人だ。後にローマ帝国では4頭立てにパワーアップした、女神ディアナは防災グッズのストレッチャーを閃いた。
で、話しを戻すと。アルテミス崇拝が盛んだったエフェソスも、やがてキリスト教が中心になったその証拠として、弟子のパウロが綴った「エフェソスへの手紙」なる物も、聖書にあるそうだ。
僕もディアナのルーツについては「通販ぺガサリオン」のカタログ、防災グッズをプロデュ―スした切っ掛けから、断片的に理解していた。まさに、アルテミス神殿放火事件とかね…。
だから倫太郎の説明、時代背景やエフェソスに関して、それなりに理解はできる。
…で、アナトリア地方の一部までは、女神ディアナの巡礼も順調に進んでいた。ところが南下するにつれて、なかなかシビアなエリアが多いだろう?…
「うん、倫太郎の指摘通りだ」
僕はミラー画面に、返事をしていた。
それこそ「ドッカーン!」、過去ディアナが経験した事象が、現代でも起こっている。
治安が安定しないエリアは、生活環境に直結する。日本では発症しない感染症も、流行している。
清潔な水、飲料水が確保できず、例えばコレラなどの流行を招いている。
コレラの治療は、難しくない。
経口補水液か輸液、必要時は抗生剤の投与だ。
そもそもワクチンがあれば、充分予防可能なんだ。悲しいかな、然るべきワクチンが普及しない・できないって。僕も医療従事者の一人として、歯がゆい事態だ。
…女神ディアナはシリアからレバノンへ、そしてヨルダンからイスラエルに進んだものの。
シビアな情勢を、目の当たりにしているうちに。女神は我が身の変化、一番大事な神々のエネルギーを失いつつあると気が付いた…
「ゴルゴダの丘があったとされる、聖墳墓教会も廻ったのね。ディアナに直接、お目にかかってはないけれど。巡礼をライフワークにする女神らしい行程を、予定していたのね。やむを得ない事態だもの、旅の変更は仕方ないわ」
絵里さんが呟いた。
ディアナの真摯な姿勢は、胸を打つ。
僕らが配信を見逃していた数分間、ディアナは巡礼の経緯を、仲間にサラっと打ち明けていた。メダイ・コールを通して、共有していた。
「倫太郎先生。アタシに代わり、説明をありがとう」
ここで女神ディアナが、バトンタッチした。
「複雑な事情を抱えるエリアを巡るうちに、自分の存在意義が分らなくなってきた。アタシは自然やお産、豊穣と多産を司る女神なのに、務めを果たしてない、自分を責めていたな…」
女神ディアナはガイウスと交代した、マルスに左脇を支えられている。
ノースリーブのざっくりしたワンピースから覗く細い両腕、浮き上がった鎖骨が目立つな。巡礼の途中で、痩せてしまった様だ。
「役目を果たしてないからこそ、巡礼を続けていたものの。徐々に神々のエネルギーを失って、抜け殻の様な状態になっていた。
このままじゃ、消滅するような危機感に襲われて。一旦、冷静さを取り戻すために、ルーツのエフェソスへ戻ったの」
「フフフッ。だからって、勝利の女神ニケ像の前を素通りする必要はないのに。筋を通すところは、僕が崇拝した大昔から変わってないですね。貴女らしいですよ」
ガイウスはやや離れた位置で、夜空を見上げている。おそらく女神を搬送する手段を呼んだ、もしくわ到着を待っているのだろう。
自分のアルテミス神殿跡や、古代ローマ時代には多くの人々が利用した知恵の宝庫ケルスス図書館、一部分が残る、エフェソスの水道橋を訪れた。太古からの空気、自然のエネルギーを全身に浴びた。
女神は立ち上がったものの。
フラついてしまい、そのままドスン…。石づくりの通路に、臀部を打ち付けてしまった。
眉根を寄せるガイウスに対して、何故かディアナは首を横に振った。
ディアナはそれまでに病院を訪れて、ミラと面会するつもりだと告げた。
そして女神は、えっちら、おっちら…おぼつかない足取りで、アレスとメルクリウスの力を借りながら、タクシーバタフライへ、うつ伏せで横になった。
進行方向と逆の体勢だから、アレスが同乗して女神を支えた。
3頭のバタフライは、金色の翼を広げた。
鱗粉を散らしながら海上を飛行して、吸い込まれるように時空トンネルへ消えてしまった。
絵里さんと温かい珈琲を飲みながら、一息ついた。
…リンタローと亜子ちゃんは、羨ましがるぜ。カフェ・グレコへ、連れてってもらったんだ!…
…でね昔フランツ・リストが、座った席に着いたんだ、ユピテルの透視だよ。多少の誤差はあるだろうけどさ…
無事に帰宅した息子達は、最高神と守護神の案内で、ローマの街を巡ってきたようだ。頑張ったご褒美は、なんとも羨ましい。
リビングでは女神ディアナ捜索隊の、お土産話しに花が咲いている。僕はとてもじゃないけど、起きる体力が、もはや残ってない。
半分聞き耳、失礼します。
…カフェでね。聖杯への厳かな行進を、ヘッドフォンで聞いたけど。僕は過去へ向かって行進した、前世の続きが頭に浮かんだよ。
皇帝ガイウスさんの大型船に乗って、エジプトからオベリスクを運んでいるシーンだった。僕は元々、大型船を漕いでいたみたい…
へえ前世の駿は、ネミ湖の船に乗る以前は、大型船の船乗りだったのか。
…フォロ・ロマーノの見学では、特にウエスタ神殿や巫女の家が、僕のルーツだから懐かしくなった。その後、チルコ・マッシモ(戦車競技場)に立った時も、懐かしかった。ガイウスさんが戦車に乗せてくれたら、他の前世の記憶が蘇るかもしれないよ…
潤の前世の一つは、ウエスタの巫女だ。戦車競技場に立ったら、記憶はさらにその先へ、トリガーしたようだ。
駿と潤は時空トンネルの往路で、古代ローマ人時代の前世を眺めた。復路は、真っ白な空間だったらしい。
息子達も前世の時代から、神々やガイウスと深く関係していたようだから。偶然を装い、女神捜索隊に選ばれたのかもしれない。
…時空トンネルの出入り口は、選ばれる。今回は音龍寺の裏山とマルタだったねえ。紐解いていけば、共通する何かを暗示しているんだよぉ…
バッカス、僕は幾つか浮かんでるよ。医療従事者であり双子の父親としてね。未来へ向けて、僕が貢献できる物に、気が付いたよ。
小さな事から、日々取り入れていくよ。
…座禅会を終えた絵理奈が、音の泉をスケッチした。写真を送ってくれたんです…
音龍寺で座禅会を終えた絵里奈ちゃんは、音の泉をスケッチしていた。息子達を乗せたペガサスが、飛び込んだ後だった。
スケッチは、なんと潮だまりで足浴する、女神ディアナの姿だった。
音の泉に、透けて見えていたらしい。時空トンネルが、開いていた証しだな。
…絵里さんの妹さんは光や水、キラキラしたものに反応する。アンジェルマン症候群の特徴が、才能となって開花したんじゃな。そうさのお、4代目皇帝クラウディウスも、ハンディを乗り越えて、傾いた国を整えた方じゃ…
そうそう皇帝クラウディウスは、ポリオ(急性灰白髄炎)を患い、後遺症が残ってしまった。現在日本ではワクチンの普及で、ポリオの発症はほとんどない。
古代ローマの神々は、勤勉なクラウディウスが政治手腕を秘めている、お見通しだったのね。
もちろん、クラウディウスのハンディを受け入れ、共に国を立て直した仲間達がいた。
彼の皇帝就任が、家系を継ぐなど、現実的な事情は否めない。
それでも異なる民族と、宗教の共存を考えたローマ帝国って。当時の発想としては、やはり寛容だったと思うし。僕も違いを認められる、人間でありたい、改めて思う。
因みに駿が輸送に携わったであろう、「皇帝カリグラのオベリスク」は、クラウディウスが港湾工事、埋め立てに再利用した。
現代のフィウミチーノ空港、またの名をレオナルド・ダヴィンチ空港付近の、防波堤工事に大型船を埋めた。
で「皇帝カリグラのオベリスク」はバチカンに残っている。
さて今の僕が、日常生活から「聖杯」を連想するのは、もはや自然な成り行きだろう。
まして女神ディアナの巡礼のゴール、発見場所はマルタだものねえ…。
何かを検索しようものなら、つい好奇心にかられて「マルタ騎士団」を探すだろうし。
息子達が飼いたがっているワンちゃんは、フワモフな「マルチーズ」だ、なんたる偶然…。
いやはや「聖杯への厳かな行進」は、スルーできるだろうか?
特に「聖杯の動機」は音が上がっていく、耳にしてしまうんだ。
僕にはどうしても、こう聞こえてしまう。
やれやれ。
当直明けの昼寝は、夢うつつでも、頭の中はカオスなんだよなあ。